「シン・ゴジラ」の撮影時,一体何が起こったのか。庵野と樋口両監督の適材適所から生まれたもの。

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↑この記事のネタ元です。


庵野は意識的にスタッフとの間に緊張関係を作り出していたのだ。そしてそのために庵野はつらい状況に置かれることにもなった。

この間本当に数年ぶりに紅白歌合戦を家族で見た。その中で、寸劇として「シン・ゴジラ」を取り扱っていた。映画で出ている俳優がそのまま登場して、同じ服装に、同じ口調のセリフ、映画と限りなく同じ演出をしていて、とても感心した。

だけど、なんだか物足りなさを感じた。精一杯、映画の雰囲気を再現しようと、演技してはいるけど、あの映画が持っていた、雪さしならない、現実味が希薄だった。

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それに、中には自分の演技をしてしまう役者もおり、必要以上に誇張した緊迫感を出そうと、声を散け、せわしなく体を動かしていた。

やはり、あの映画の中で行われたこと、そして、その結果は特別なものだったのだと、見ながらとても実感した。

異例にも3回も見てしまったのは、やはり、人を惹きつけてやまない、異常が支配されていたのだろうとこの時感じたのだ。同じ環境で、同じ人間が、同じことをしても結果は全く違ったものになる。そんなことは無限にある。それを、この目で確認できた。

このブログで、結果として人を惹きつけてやまない作品を作り出した、その原因を紹介している。

本来ならば、演出は共同監督の樋口真嗣が行うはずであった。しかし、撮影が始まると総監督であり、脚本や編集ぐらいをやるいわば裏方のはずであった庵野秀明が、現場を完全に仕切り、無理難題やら撮影の進行やらを自分の裁量で決めて行った。

そのために、現場に亀裂が走り、対立が生まれて、巨大な混沌の中突き進んで行ったようだ。それは、まるでゴジラのごとく。

個人的には樋口監督の映画は好きではない。特撮シーンになるととても楽しい演出をしてくれるが、人間が喋り始めるとなんとも気の抜けた場面の連続になる。

才能がないわけではないのに、残念を通り越して、なんだか狐につままれた感じがしてしょうがない。

しかし、着実に映画、それも、太作を任されて撮っているということは、映画の才能以外に、人望があるのだろう。彼か出ているテレビやラジオをみると、あの大きな丸っこい体と人懐っこい笑顔、そして、楽しい話に好感をいだいてしまう。

庵野氏が現場を仕切り始めた時、樋口組のスタッフから非難の声が上がった時ことが書かれているのが、彼の人柄の良さの証明だ。

庵野氏は樋口氏の強みと弱みを知っていたのだろうか。庵野氏の混乱しか生まない言動と、結果としての作品の品質を知るに、知ってか知らずか、明確な目標のある組織運営としては、完全とは言わなくても、かなり、いい戦を行っていたのだろう。

急成長するベンチャー企業のように、頭のネジがぶっ飛んだリーダーが、考えられないほどの経営目標と、製品の品質を掲げて社員を鼓舞し、目標に向かって行進させる。その強烈な現実の前で、空中分解しそうな組織を、現実な対応で強固に心身共、整理し、人が方向を失うのを阻止しし、協調感と安心感を復活させる。

そして、厳しい目標は、望む希望の未来になる。

庵野氏、樋口氏それぞれが、その立場と境遇を望んで、楽しんだとは思わないが、意識の有無に関わらず。薄氷を踏むような絶妙な緊張感が生まれて、その結果。あの、素晴らしい作品が生まれたのは事実として、認めなくてはいけないかなと思う。









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