「職業としての小説家」その3

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村上春樹氏の「職業としての小説家」をようやく読み終わりました。すぐ、読めると思っていましたが、なかなか進まず、以外と時間がかかってしまいました。

でも、存分に楽しんだので、本当に得した気分です。久しぶりにじっくりと時間をかけて、紙の本を読んで、改めていいもんだと感じました。なんたって、バッテリーが必要ないし、とても軽いので少し時間ができれば取り出して読むことができます。それに、飛行機に乗っていても、離着陸の時に電源を切る必要がありません。当たり前の話ですが、なんだかとても気楽に本を読めて嬉しかった。

さて、今回も感じたことを書いていきます。

 

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本も最後の方になると、村上氏が小説を書く上での、核心に迫ってきます。それと、自身の努力ではどうしようもない人からの評価のことを書いています。

小説を書く、など、創作活動には自分の精神の奥底に入っていく必要があります。より、満足いくものを作るために、より深く、より細かく精神の奥に突き進んでいきます。創作者の性なのですが、それは、心の闇に限りなく近づくことになります。

知っている芸術家とか、思い出すと確かに素晴らしい作品を次々出し、人々からの賞賛を浴びていても、自ら命を絶ったり、世の中の常識からかけ離れた悪行に手を染める人も多い。

彼らは、創作の闇に囚われて、身動きが取れなくなり、滅んでしまった人々です。

村上氏はその創作の闇に囚われないために何をしているのか。こうして、長年定期的に小説を、それも一定の基準を持ったものを書き続けるには、闇との関係をリセットし、精神を回復させる術を自分の人生の中から得てきました。

人それぞれその方法はあるようですが、彼の場合は規則正しい生活と、スポーツでした。

村上氏を好きな人の間では有名な話ですが、朝4時には起きて、コーヒーを飲みながら毎日原稿用紙10枚分の小説を書きます。これは、気分で左右されることは厳禁で、どんな状態であっても、必ずMacのキーを叩き、小説を書いていきます。

創作活動とか芸術活動というよりも、工場での生産活動みたいだと村上氏は言っています。

そして、スポーツです。安定した精神を保つために、スポーツ、彼の場合はランニングを徹底して行なっています。トライアスロンにも出ているようですから、本格的なアスリートです。こうして肉体を常に鍛え抜いて体力的に向上させてきたからこそ、精神が暗闇に囚われず比較的に安定し続けられたのです。

単純ですが、このように生きていくには考える以上に大変なのだと思います。だからこそこうしていつまでも魅了する作品が作れるのでしょう。なかなか僕のような優柔不断で快楽に溺れやすい人間には難しいことです。

そして、もう一つ気になったことというか、なるほどなと感心したことがあります。

人によっては、上司に恵まれないというか、目上の人に愛されない人がいます。どうしようもないのですがこのように世の中には、権威というか序列というか、世の中を作っている存在から、どうしても愛されない人がいます。

村上氏もそんな損な人の一人のようです。

そう言えば村上氏を手放しで褒める文化人というか、知識階級というのはあまりいません。

少し前に久米宏氏がラジオで村上氏の文章のことを語っていました。村上氏がとても海外で評判が高いという話をしていました。それは、彼の言葉が海外の言葉に近しい、日本文学流れとは違っていると言っていました。そのために、海外の人は彼の文章に親近感を抱いている。

まあ、確かにそうだろうなあということもありますが、言葉のニュアンスとしては、少しばかり皮肉がこもった様子でした。どうして、こうして誰もが直線ではなく、斜めから彼の文章を語るのか。それも、日本人として尊敬するに値する知識人たちが。

このことは、村上氏も痛く実感しており、そのために結構心労を溜め込んでいることを語っていました。

それもあって、日本の文壇界からは少し離れたところで生活の基礎を築いてきたと語っています。海外への渡航と、積極的な小説の展開も、日本とは関係の無い別の世界で自身の作品を試してみたかったとのことです。

ただ、海外に評判を受けたいがために、村上氏独特の欧米文学調文体にしたわけでなくて、楽しんだのが海外文学だったわけですが、それは単なる嗜好品としての存在で、それを身につけて真似たわけではなかったようです。

そんな感じで、彼としては困った誤解で、どうしても定説になってしまって、拭えない状態になってしまったようです。

書けば、文壇の重鎮から手放しで称賛される小説家もいれば、どうしてか書けば書いたで文句を言われて、書かなかったらそれで文句を言われる、不憫な人です。

でも、世の中にはこんな人がいます。お客さんもそれなりにいて、それも、仕事ぶりも人並み以上で、それなりにいい仕事をしているのに、目上の人には認められない。

その世界で人の上に立っていて、実力と力がある人は基本的な範疇の中で上り詰めた人です。だから、明確な基準があって、その基準の中で一生懸命生きて結果を出し、周りの人から認められ、生き残ったのですから、それからちょとでも抜けてしまっている存在を認めることはとても難しいかもしれません。それに、自分の存在も危ぶまれるのですから死活問題です。

彼が今ひとつ、文壇界から受け入れられないのは、彼の書く小説が彼らの世界からは少しずれているからなんでしょう。

彼の小説を読んでいつも思うのですが、小説の論点やメッセージを突き詰めると、なんだか今ひとつモヤモヤして、人類とか世界とかの幸福やら苦悩やら、通常芸術家が突き詰める部分がよく見えてこなくて、落とし所が見えてこないのですが、読むととんでもなく飲み込まれてしまう。

なんだかよくわからないのに、魅了される作品をそのままの姿で出してくる。不思議で不可解なストーリーテラーです彼は。

そこにある薄くて、軽い、でも、深々と体に入り込む物語の命が、どうしても好きな人がいれば、何としても拒絶したい人もいるのでしょう。良くも悪くも彼の小説を拒絶したい人は、文学の世界にひたすら生きてきた真っ当な人が多そう。これは悲しむべきことかもしれませんが、その代わり、僕たちはこの世の理から浮かび上がった、心地いい物語を体験することが許されるのですから。

物事には二面性があります。絶対的な事実はありません。彼が一つの全体的な力に対して、常に敵愾心を持って対されている代わりに、そのおかげで素晴らしい作品が生まれてくる。まるで、お産のような事実があるのですから。

とりあえず、この本の感想はこれでやめにしときます。なんだか、支離滅裂になってしまいました。








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