小説家としての世の中での価値と意味「職業としての小説家」

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紙の本を読みたいと思いながらなかなか買うとこができませんでした。買うとなると、お金がかかる。それだけど、とても深刻な問題です。僕にとっては。そこで、何かよみたくなると、ついついiPhoneに手を出してしまうのです。

でも、なんだかそれでは十分に読んだ気ない。読むというよりは、眺めているだけの感じがします。事実、そのようなことを読んだ記憶があります。

もうそろそろ、発光しない本を読まなくてはと、本屋をうろうろして、結局興味が惹かれるものはたくさんあるけど、お値段が高かったり、いまひとつ踏ん切りがつかなかっなりして悩むばかりで、買うに至りません。

でも、ここで買わなければ、せっかくの決意が水の泡になってしまいます。ここは、思い切り目をつぶり、本を選びました。

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結局買ったのは、村上春樹氏の「職業としての小説家」

我ながら、無難な線を選んだと思います。彼ならば、確実にある一定は面白くも、為になりますから。なんだか、ハルキニストみたいで気恥ずかしい。

彼のエッセイ、小説家としての心情を書き綴った、とても、力の抜けた面白い本です。少々、心象風景が盛り込まれ過ぎているきらいはありますが、好きな人にはたまらない本です。

小説家になるには、とても敷居が低いと書かれています。それに、他の小説家も新規参入する人たちを、そうは拒まない。他のスポーツ選手や会社経営、などだとより優秀な人が新しく入ってくると、途端に自分の居場所がなくなって、生活が破綻してしまいます。

でも、小説家にはそれがとても希薄のようです。それに、小説を書くということは、さほど難しいことではなく、彼がいうことなので書いときます。書き続けることが、小説家として生き残ることがとてもとても難しい。その難しさと、厄介さを体感として知っているから、小説家は新たに生まれた優秀な小説家を、静観できる。と、彼は書いています。

思うに、小説家ほど普通の人が突然初めて、日の目を見られる芸術作品はないのでは。

どれだけ貧乏でも、ノートとペンぐらいは買うことができます。きっと、今の日本では。そして、時間があれば、時間がなくとも、ちょとした場所で、一人で、ある程度迷惑をかけず書くことができます。

それに、生きていて、それなりに感受性が豊かならば、溜め込んだ内外の出来事を自分なりに保管して、エサにすることもできる。これも、実に個人的に他者とは関わることなく。

長い間艱難辛苦を越えて技術を積み重ねたり、特別な肉体的な才能があったり、突室した知性があったりする必要なんてない。と、思います。

こんなことを、村上春樹氏も書いていました。もちろん彼は、世界的な文章の天才ですから、天才だからそう言えるんだと、言えば身もふたもないのですが、天才かどうかはやって見ないとわからない。

その、やってみるということが、大切で、そのきっかけの軽さが、小説やエッセイなど文章を書く創作には、あります。

時々、小説の作品紹介と共に、著者のインタビューが載っていますが、そこに写っている著者は時として、この切れ味のある文書を本当に書いたのか、と、いぶかしく思うぐらいに平凡な様相をしている時があります。

これは、決して侮っていっているわけではなく、小説家だからこそ、才気に溢れている内面を外面に左右されず、存分に出せる素晴らしさと、自由があるのではないかと信じています。その、証明ではないでしょうか。

全ての創作活動が、内外共に極められた、特別な存在として高いものになりやすい中。近所のおばちゃんでも、僕のような冴えない中年でも、100円ノートで始められる小説家というあやふやな創作者を、世の中に居させてくれる。それが、大切なことだと思います。

なんて、ちょと偉そうなことを書いてしまいました。少し反省です。きっと、村上春樹氏の文章に当てられたのでしょう。

 








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