古き良きなんて言葉。映画館には使いたいかも「もぎりよ今夜も有難う」

古き良き、昔は良かったなんてことは、決して言いたくない。年寄り臭い、情けない。が、映画館だけは、今のシネコンではない街角の小汚い映画館だけは、昔は良かったと懐かしんで言える。

世を儚んで日々を生きていた人間が、漆黒の穴蔵に彷徨いこみ、安住のひと時を過ごす。それが映画館であった。老いも若きも、善男善女と悪男悪女も、敗者も勝者も、分け隔てなく受け入れる度量の広さがあった。

その時代の、豊かなる風俗を遺憾なく味わい尽くした、片桐はいり女史の映画愛、映画館愛がふんだんに大盛りに盛り付けられた、「もぎりよ今夜も有難う」をKindleで買う。

涙なくしては読み進めることが出来ない名著である。

もぎりとして映画館を中から味わい尽くした女史が、当時の映画館で味わえた映画と、それに集う人々の姿を。ポンヤリ、ホンワカ描く。社会に対する声高な要求や、世界人類に対する高尚な思想、どこかの誰かに対する悲壮な提案などなどまったくなく。

疲れた、ひ弱な、事なかれ主義の人間。つまり我にとっては、なんとも心地良き文章の流れが愛おしい。

片桐はいり女史、とても文章が上手い。そのことは、それほど知られていないのかもしれない。あまり耳に目に記憶がない。情景をこと細やかに文字に変え、湧き出す気持ちを絵具のように重ね合わせて、心の機微を語る。映画と映画館への愛と共に。

読みながら、僕が経験した映画館との日々と、折り重なるところがある。そう言えばそうだったと、一つ一つ懐かしい。映画を観ることは競争だった。最高の席を確保するには、人をかき分け素早く希望の場所へ駆けていかねばならない。

途中入りは、失礼だと思いながら、ズボラで堪え性がなく、甲斐性なしの我が身体は、外から漏れ出てくる台詞と音楽に、我慢ができずドアに手をかける。そして、非常に変なところから理解不能で見始めてしまう。入れ替えではないので、そのまま頭からまた見直せたので、お得だと言い聞かせながら。

読むたびに、街角に必ずあった手垢にまみれた地方の映画館を思い出す。懐かしくも、心地よい。映画館は青春から青年時代の僕の桃源郷であった。

まだ途中で、読み切ってはないが、どんどん読むのはつまらない。こんな素敵なエッセイは、ゆっくりゆったり読むつもり。

最近の時勢で映画館に全く行けていない。こんな本を読んでいると、無性に行きたい。でも、シネコンは違う。食堂や本屋、それと、スーパーが並ぶ繁華街に、デン!と腰を下ろしている「映画館」に行きたい。それこそ、今では幻だが。

 

 

 

 

 

 

 

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