市井の凡人が歴史と世界に人生を証明する手段としての日記

胸を張って、日記を書いてみても良いかもしれません。

たかが日記、されど日記。なもなき民の日記が、歴史を刻む貴重な記録になっています。今この瞬間では、無意味でつまうない文字の羅列かもしれませんが、数十年経つと芳醇な香りを放つかもしれません。

僕のはそんなことはないとは思いますが、希望は捨てずに痛い、いや、居たい。

今、「アンネの日記」を読んでいます。

大戦時のユダヤ人少女の日々を綴った日記。多くのユダヤ人が受けた運命。その一つ。とても惹きつけられながら。市井の民の生活を書き綴った悲しみと、理不尽、それなのに少女の持つ”長い未来”への希望を実感しています。

不思議で、少し不敬なことを書いてしまうと、隠れ屋での不自由な生活の中でも、見えてくる青春というか、若い魂の気楽さや柔らかい自由さを感じています。

何気なくこの物語を読んでいたら、きっと、この少女はこの苦難をすり抜け、アメリカあたりで有名な記者となり、その功績から一頭地の高層マンションの一室に住まう、セレブになっていると空想してしまいます。

事実は、全く真逆ですが。

それほど人の運命はわからないものなのです。来年のことを自然に考えている。でも、それは明日途絶える可能性もある。いや、この瞬間にも途絶えるかもしれない。

人の運命をとやかく言うのは野暮でのろまですが、儚く歯痒く如何ともし難い面倒でややこしいものなのが本質なのかもしれません。

さて、そこで日記というものの、あまり必要性のとても薄いものの存在が大切になってくるのではないだろうかと、推測します。

明日には消えてしまう、思い願う到達点にたどり着いてくれない人生に対して、わずかばかり抵抗を示し、世界に引っ掻き傷を残す。そのための手段として日記は使えるのではないかと。

消えゆく、儚く、無価値な人生の中身を、日記という形に変えることで、明確な存在になるそう思います。

今この瞬間、生きていたことを証明できる。

なんとも、芳しい人生の証明でしょうか。誰もがその人生を伝記として記してくれない、市井の凡人が自らの手によって、歴史の表現者となるのです。見た、来た、感じた、歴史の証明者として世界に記録されるのです。

これは、なかなか素敵なことてはないでしょうか。

日本では名高い日記文学が生まれていると、どこかで聞きました。日記と日本人。とても親和性のある間柄、その親和性から神話性の高い文学が生まれてきたし、今書かれている無数の日記から生まれてくるかもしれません。

そんな、ことを考えると、不確かな人生に対し、ささやかな抵抗として、生きた証として、何よりも世界中が求めている名作のために、日記は十分価値のある創作手段だと思うのです。

それでは。

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