凡庸雑記「狭き広い美しき世界」

一年の無理が祟って

今年一年の無理が祟ってか、11月に入ってから腰が痛くてしかたがない。それに加え、年始めから左手がとてもひどい腱鞘炎になってしまい。まともに使えない。

今、まさに満身創痍をかき集めた状態である。

腰痛が生活の一部に

かれこれ10年前ぐらいに、軽いヘルニアになってしまい、腰痛が生活の一部になっている。ひどくなると馴染みの整骨院に駆け込んでは、その場しのぎの処置をして命を永らえてきた。

もちろん、年がら年中七転八倒しているわけではなく、調子良く汗水垂らして過酷な業務をこなせる時もある。まあ、騙し騙しそんな生活を送っている。

今回はかなり厳しい

だが、今回はかなり厳しい。そう腰が訴えている。

このまま歳を重ねていくと、痛みがしたり顔で近寄って来て、四六中かたわらでほくそ笑むことになりやしないかと不安になる。

そうなると、創作も楽しくなくなってしまう。

文章を書くにも体力がいる

体の痛みと関係なさそうな書き物も、意外に体力を使う。具合がよろしくないと、ここぞという言葉が頭の中から引っ張り出せない。“あ”とか“い”とか初めの一言を決める集中力や瞬発力も骨抜きになってしまう。

腰痛はそれが顕著に出る。体の中心というか軸のような部分だから、ぐぐっぐっと考えに力を入れると、力みが背中を伝い、腰にたどり着き痛みが顔を出す。言葉通り腰が座らなくなる。

そして、言葉が消えてしまう。

後から失った言葉あれこれをかき集めるのは、とても面倒で厄介な作業だ。一度空中に放たれた言葉は、瞬間に変異して、手を伸ばし掴んだとしても似て非なるものになっている。

そんな徒労を繰り返し、ようやく言葉がひと塊の文章として生まれる。なんとも気の遠くなるような痛い労働である。

腰痛にも負けず

それでも、文章を書くのはなんとかなる。

これが写真ならどうだろう。

最近、ニコンのZ6を手に入れて、俄然、写欲に目覚めた。

時間があれば街を徘徊し、雑踏の中、なにかしら琴線に触れる対象を写真に収めたいと、スキ(隙で好)あらば狙っている。

しかしだ、ここ最近、時間があったとしても、腰の痛みで、外に出、写真を撮ることに少し躊躇がある。

それでも、風景の中に、心ときめく部分を見つけると、気がつけばカメラを持っている。

哀れな身なりで非日常の行動を行う男を、訝しく見つめる通行者の視線に臆せず、写真機を構えシャッターを切っている。

今のところ、腰痛に負け撮ることに気持ちが削がれたりはしないが、カメラを襷掛けにして、ぶら下げて延々と歩いていると、とにかく腰が痛くて仕方がない。

続けるために体か機か

軽くはなったミラーレスだが、フルサイズはそれなりに大きさと、重さがある。ひたすら歩きながら、撮り続けていると、体全体が悲鳴を上げてしまう。撮っている最中は、心と体が興奮し、なんとかしのいではいるが、後々、結構ひどい具合になるのが、哀れだ。

これ以上、腰や体のあちらこちらが悲鳴を上げて、写欲を凌駕してしまうと、その時には、写真という喜びを放棄しなければいけない。かもしれない。

兎にも角にも、文章を書く、絵を描く、それらに比べ、直接的に体の具合が影響するのが、写真という趣味。外に出なくては、歩き回らなくては、埒が明かない。ぐうの音も出ない。

写真を続けるのために、足腰を改善しなくてはならないと思う。しかし、どうにもこれ以上良くはなりそうもない予感もする。もしかしたら、せっかく手に入れたフルサイズミラーレス以外の写真機も考えなくては、軽く小さく良く写るものにしなくてはならないかもしれない、そんな、複雑な不安に苛まれる。

狭き広い美しき世界

芸術家、文章家などが病や怪我で床から一歩も動けなくなるという話を聞く。限られた生活を強いられ、日々変化の少ない環境にいながらも、細やかな美しさを見出しながら、見果てぬ希望を望みながら、広大な美しき世界を作り上げる。

旅を愛し、あらゆる場所で美しさと出会うことが叶わなくても、新鮮な出会いと、美しさの創造はできる。そんな事実を数多の天才たちが証明している。

もし、体が動かなくなったら、風光明媚な高台に古民家でも借り、そこから一歩も出ず、縁側にしっかりした三脚を据え、眼下に広がる風景望み、四季の変化を写真に留めてもいいかもしれない。

あとは、少し広い庭をぶらつきながら、春夏秋冬に訪れる自然の機微を撮るのも悪くない。

そして、そいつを寝っ転がたままMacで現像し、文章を書き加えて、ブログに発表する。なんだかそんな人生っていいんじゃないのと、思うのだった。

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