凡庸雑記「逃避」

逃避の道具

芸術というのは、僕にとっては主に「逃避」の道具である、正直なところ。

普通は、真っ当で前向きに、人としての美意識を高め、精神を豊かにするものだ。時には、不相応にひけらかすための装飾として使われたり、経済の道具として使われたりもするが、概ね、人類の繊細で美しい側面を照らす光であろう。

それなのに、iPad Proの前で、キーボードを迷いながら打っているこの男ときたら、尻込みし後退した心の避難場所として、芸術を食い散らかしている。

思うに任せない人生を、現世を変えることのできぬ心細い勇気を持ち、それでいて、そびえ立つ自我と果て度もない理想の海原を抱え、矛盾しぶつかり合うそれらの中で行き場を失くし、迷い疲弊した心を「逃避」させた芸術の中へ。

初めは読書の中へ

思い出すに、初めは書籍だ。

体がさほど丈夫ではない少年期。些細なことで頭痛に見舞われ、腹を崩し、布団の中で過ごすことがそれなりにあった。そんな時楽しみとしていたのが、布団に寝転がり小説を読むことだった。

あれほどまでに物語の中に、深く彷徨ったのは、あの時だけだ。今そうしようとして、スマホやその他もろもろで、気持ちが集中できない。それが、進化なのか退化なのか、よくわからない。

静かな何もない部屋の中、本の中で繰り広げられる物語に、体が溶け込み浮世が消えてゆく心地よさは特別な経験だった。

映画の中へ移る

その後、「逃避」の先は映画に移った。

元々、映像には興味があり、物語と映像双方が並び立つ映画へ必然的に足が向くのは時間も問題だった。家の近くには映画館が全くなかったので、小一時間自転車を走らせて、足繁く通った。

当時はまだ、田舎街でも地元の地面から生えたような映画館や、ボロボロだが味のある名画座あったり、「逃避」場所としては映画館は絶対的な存在だった。

それは、長い間人生を共にした。仕事を始め、場所を移っても、まずは映画館に体を滑り込ませて、存分に「逃避」を楽しんだ。

「カッコウの巣の上で」とか、「アンタッチャブル」、もちろん「ゴッドファーザー」に「生きる」と来て「七人の侍」などなど、若かったせいか、よく漫画やドラマで見終わってから体が動けなかったなんて、嘘のような話が繰り返されるが、自分自身でいくつかの作品は冗談抜き、真実な話、体が動かず椅子からしばらく立ち上がれなかった。

映画との蜜月は終わった

だけど、そんな映画との蜜月は、最近芳しくない。終わったのかもしれない。

街角から、次々と地元に根のはった映画館が消え、ショッピングモールにシネコンが併設されるようになった。当初、それを素直に喜んだ。美しく整ったシネコンの異空間の華やかさにあてられ、映画の次の時代が訪れたと感じたのだ。

が、どうもいけない。何がいけないのか。

うらぶれた存在が「逃避」として使うにはあまりにも正しい。真っ当すぎる。

さまざまな現実を重く暗く背負い、トボトボとスクリーンの前に進むことができない、はばかれる。ちゃんとした人として、人生を楽しむための一つとして、娯楽としていけなければならない。そんな、抵抗が心に生まれ、足を遠のかせてしまう。

別に、映画館のスタッフに言われるはずもなく、来ている健康的な家族に笑われることも決してないが、どうにも違うと感じてしまう。なんだか、とても面倒で、厄介な男だなと、我ながら呆れかえるのだけど。

映画館からiPad Proへ逃避

別に、それで映画が嫌いに決して、絶対、嫌いになったわけではなく、興味は人一倍持っているが、なんだか「逃避」しづらくなったと感じている。

それに、その代わりに、最近ではNetflixやアマゾンプライムビデオ、それにApple TV +があるので、iPad Proにダウンロードして、一人気ままにミニ映画館、つまりは自分の車の中で映画三昧の日々を過ごしている。

映画は映画館。とは言いうけれど、これはこれで快適で適切だからヤメられない。

忘れ得ぬ最高の逃避

そういえば、「逃避」としての芸術で、正直一番だったのは「オペラ」だった。

カッコつけかもしれないが、生オペラを観に行ったことがある。きっと、一生に一度の事だと思う。

演目はヴェルディの「椿姫」

兵庫県の尼崎のホールで、確か2,000円で観られた。演者は全て日本人、おまけに日本語での上演だった。だから、物は試しと、クラシック好きと公言しているのだから、一度はオペラを観てみなくてはと、赴いた。

「椿姫」かなりベタな演目。CDやDVD、映画でも有名無名多くのオーケストラが演じている。

海の向こうのヨーロッパの本場では、交響曲よりも断然オペラ。それを観なきゃ始まらないと、クラシック知識本で読んで、浅はかなウンチクを身につけてしまっていたので、とりあえずは聴きやすいこれにするかと、丁度手頃な値段で上演されていたこれを選んだ。

ちなみに、独学手習程度の「逃避」先としてクラシックはたしなんでいたので、「椿姫」もいくつか観て聴いていた。大好きなカルロス・クライバー指揮や、巨匠フランコ・ゼッフィレッリの映画版、マリアカラスも聞き齧った。予習を十分行って、見たけれど正直なところ、良かったがこんなもんやろうと、それなりの感想だった。

上映時間はさほど長くなく、基本は歌に合わせて場面が進む。話が唐突に変わるため、いまいち登場人物の内面に入れず。歌や音楽を楽しむためには、物語は少々弱くなっているのか、仕方なし。

で、日本人だし、安い料金だしと、人生一度は経験しておくべき義務として、少々侮りながら比較的より前の方の席を陣取る。

それがだ、第一幕は今まさに始まった瞬間。オーケストラピットから会場全体に音楽が雷雲の如く浮かび上がった。

瞬間、自分の今いる場所を見失うほどの、至福が自分を、会場全体を包んだ。

不思議なのが、あれだけ何度もCDや映画を繰り返し聴いていたのに、今ひとつ分からなかった、登場人物の全てが。父親と話をした(オペラだから歌いあう)だけで、あれほど愛している人を諦められるのか、全くピンとこなかった。

それがだ、生の臨場感の中その場面を観ると、痛いほど彼女の気持ち、父親の正義が伝わって、万感胸にきた。生の魔法なのか摩訶不思議。

終始、夢心地とはこれにあり。と、ばかりに繰り広げられる、歌と音楽、それに物語に陶酔し続け、うっとり満足して人生最大唯一の「逃避」を得たのだった。

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