凡庸雑記「陶酔」仕事で得られる陶酔は本当だろうか?





仕事というのは本当に厄介で、余計なことだ。と、思ってしまう。

世の中には、楽しくて嬉しくて、自分の幸福に直結することが山のようにあるのに、やっぱり何かと人生の基軸を”仕事”なんかにおいてしまう。

あ〜嫌だいやだと思いながらも、次々と訪れる仕事の波を、必死になってかき分けて、日々過ごしている。今日も、家で仕事をしていたのだけど、あれもこれもやることが湧いて出て、汲めどもつきぬ山中の泉のごとくだ。





でも、厄介なことに僕も君も”仕事”が生きにことに直結している。幸福に直結しているかはさておいて。ほとんどの仕事は、処理すれば賃金に変換されて、それでご飯が食べられ、雨風を防げる家に住める。

ちょいと、生活にプラスできたならば、乗り心地の良い大きめの車を手に入れて、山海の珍味に舌鼓を打ち、ゆったりと湯船に浸かる至福にもあずかれる。

もちろん、こうして目の前にMacを置いて、つらつらと楽しげに長いことやっているのに、なかなか身につかない親指シフトで文字を打つこともできない。





本当に厄介なことだけど、”仕事”というのは直接的に、物理的恵みを与えてくれる。

ほとんどの場合、明確に行動の結果を見ることができる。

だからこそ、熱心に仕事をやり続けるし、そのうち豊かな生活の手段ではなく、仕事自体が陶酔するための媚薬となってしまう。世の中は、それでこそ、金銭に縛られなず目的としない、正しく見事な仕事への姿勢であり、人間としての正当な姿だと拍手を送り仲間と認める。





僕もそんな人間の一人だし、なんとしてもそうなりたいと、強く望んでいた。何より、社会の仕組みの中で、唯一無二の価値を持ち、誰からも、そして社会の囲いの中で、秀でた上部の人々に認められて、受け入れて欲しいと願っていた。

ただ、どうもそんな都合の良い人にはなれそうもないことが、最近、もうあと一歩であの世行きかもしれぬ時を経て、ようやく分かり始めた。

それに、社会の中で”仕事”の輪の中で、自分の価値と意味を見出す必要が無いと、そっぽを向いて、あさってを眺めると、自分の心地よい世界は至る所で広がっていると、ほのかに感じている。

そちらの方へ手招きされながら、ふらふら千鳥足も悪くは無いじゃなかろうかと。





と、言いながらやっぱり人として社会に放り出されて、まがりなりにも生きていかなくてはならない。と、なると、否が応でも”仕事”とは関わらないといけない。何より、本質はどうであれ、運よく”仕事”を乗り越えた時の実質的な糧を得られる強烈な満足感と幸福感は「陶酔」というほかない。

本当には別に幸福が転がっていたとしても、なかなか他に目を向けることは難しいのかしれない。

こんなことを書きながら、本当に仕事をせず、好き勝手にやっていたら、それこそ人としてどうなんだ。迷惑ばかりかける人生って困ってしまう。などなど、心に浮かんでしまう。何事も決めつけはいけないのだろう。





なんだか、次々仕事があって、おまけに問題が引っ付いてくるから、気が滅入ってこんなことを書いてしまった。写真を撮りたいし、現像も溜まっている。こうして文章も書きたい。余裕があればYouTuberデビューなんて楽しそう。

やりたいことはたくさんあるが、目の前の処理をやり遂げないと、楽しそうな夢も本当の夢になってしまうから、兎にも角にも一直線に”仕事”を処理しないと。

 

 

 

 

 

 



 

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