凡庸”写真”雑記「選択」

時間があったらせっせと写真を撮っている。と言いたいところだけど、最近は、ちょっと飽きが来て、少し情熱が薄まり、あんまりカメラを持ち歩いていない。

この間も、高松に出張に行ってたのだが、MacやiPad、仕事道具やら、持つものが多くて結局はNikon Z6を持っていくことを断念してしまった。

少し前なら、気合を入れて無理にでも鞄の中にねじ込んで持っていったはずなのに、それでも写真愛好家なのかと、きっと、後ろ指を刺されるだろう体たらくである。

まあ、写真で飯を食っている訳でもないし、強制的に撮らねばならぬと自らを脅迫する様では、何のための趣味趣向なのやらわからぬことになるので、ぼちぼち気が向いたら撮っていく姿勢で、細く長く写真道楽を続けていこうと、誤魔化してはいるのだけど。

写真を撮ったら、自らの懐に抱え込み、時折引っ張り出しては密かにほくそ笑むのも、一つの趣向であるが。人というのは、慎ましいく生きていくにはあまりにも強欲な生き物である。

つい、自画自賛の果てに、それをもれなく他人にひけらかしたくなる。

そこで、世の中のありとあらゆる術を使い、自身の自信たる写真を世の中に問うてしまう。よせば良いのにと心の片隅で呟いたとしても、それは、人の業。自己承認欲求は何よりにも増して強く甘い。

御多分に洩れずこの僕も、撮ったら即、一切合切ひけらかしの日々を送っている。さほど選抜などせず、みんなそれぞれ良いところがあると自画自賛の極みの元、人の目も思いも意に介さず甚だ迷惑なことだと理解しつつも、こうして投稿している。

写真を自己顕示欲の術として、自己の才の証明として、世の中に放り出す場合。少しばかり思案することがある。

賞賛されることを目標として放り出す写真は、数えきれないほどの枚数の方が良いのか。はたまた、厳選されたたった一枚が良いのか。

個人的習性として、なるべく多い方が良いのではないか?と、信仰している。多い方が他方からの評価が受けやすいのではないか。何たって、人それぞれ趣味趣向は違う。多いほどそれらを、網羅しやすいはず。

それと、個人的な問題もある。

到底、自分自身の腹積りで、たった一枚これだと絞り込めないからだ。小心者、優柔不断、浮気者等々、なんと言ってもらってもいい。とにかく、目移りして、あれもよければこれも良いと、選ぶ労役を果たせない。

結果、多い方が何だか写真の才能と努力がありそうじゃない。と、無節操に無数に写真を放り上げ続けている。

反面、たった一枚。自らの表現の意図に合致した写真を差し出している方がいる。

多くはないが至極真っ当で、納得が行き、厳選された潔さになるほどなあ。無節操にたくさん並べるよりも、撮影の意図と美を見事に表しているなあ。と、感嘆することがある。

事実、数多く高い評価を得ていたりする。

こんなのを見せつけられると、僕もあれもこれもと出さず、断腸の思いで、これこそが我が芸術だと、審美眼で選別し、たった一枚の芸術的写真を世の中に問うこともしなきゃなあと、悔い改めさせられる。その時は。

しかし、思うのはその時ばかりで、いつもながら選択の努力を放棄して、無節操に無数の写真をついつい放り出してしまう。やっぱり、いろんな場面の、いろんな表情があって、到底一枚には絞り込めない。

これからも、人の迷惑を顧みず、せっせと、片っ端から世に出していくだろう。きっと。

この写真は、昼休みの時に東京の丸の内付近を撮り歩いたもの。少し歩くと、三菱美術館があり、すごく小さな公園になっている。この辺で働いている人の憩いの場になっており、昼食どきのためかなり休憩している人がいた。

慌ただしい、都会のビルの間の、心休まるオアシス。いつ来ても気持ちが楽になる。

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