凡庸雑記「趣向」

人それぞれ

趣向というのは人それぞれ。最近とみに思う。

人様が褒め称えているものでも、自分には今ひとつ触手が動かなかったり、胸がすく思いにならなかったり。

反面、さほど評価が高くなかったり、話題すら出ないものが、自分にとっては忘れ得ない喜びの一つだったりする。

世の中はそれほど違うものだし、ままならないものだ。



人に何と言われようとも

だから、人に何と言われようと、公序良俗の範疇にぎり入ってさえいれば、胸をはって“好き”だとか“嫌い”だとかを、宣言すればいい。と、思いたい。

でも、悲しくも哀れならが、我が心は晩秋の枯れ葉の如く、薄っぺらく朽ちており、些細な風雨で、いとも簡単に散り散りと霧散してしまう。

自身に自信が無い故だろう。こんなにも、自分以外の意志に左右されるのは。



他者と一線を画す自由

どんな名作と言える映画とか小説だったとしても、Amazonの評価にはそれはもう頭を抱えるほどの罵声を浴びせている人々が少なくともいる。

個人的に、感動し内容に感嘆した作品だど、星一つの評価を読むと、この人は作品の本質をわかっちゃいない。とか、創作品に対する洞察力が欠如している。などなど、憤慨することがある。

が、別の面から落ち着いて見てみると、他者と一線を画す本質の自由がこの人にはあるのではないかと、思わされる。



純度の高いわがまま

世界中の、美意識に秀でている(と思われる)方々の言葉などもろともせず、意に返さず、これは自分が愛し、あちらば侮蔑するものだと、独自の価値基準で仕分けできる、これは勇気というのやら、無知なのか、はたまた純度の高いわがままなのか。



一家言に従う

でも、自分で判断せず、俗にいう「一家言」ある人の言葉も素直に試してみるのも、人の成長にはそう悪くはない。ことを実感している。矛盾しているのだけど、真理の一面でもある。(そもそも真理なんてないのだけど、下手な新興宗教じゃあるまいし)

これは、ある時ある人の話なのだけど、その人ブルックナーの交響曲が全くもって、分からなかった。とにかく、長く平坦。睡魔が唯一の心身的変化だった。

だけど、兎にも角にも“通”にはこの交響曲“受け”が良い。それに、ほんのちょっぴり引かれてもいた。

そこで、何回も、何回も聞き続け、心の霧をかき分けかき分け進んでいった。そして、ある日ある時、会社の帰り道、鳴り響く車内、天啓の如く感動が頭上から降り注いた。その時、「あゝこれを、この純粋な美しさを、彼らは見たんだなあ」と、知るに至った。



自己と世界の矛盾を浴びて

自分の中に育まれた“カタチ”は大切にしなければならないものだが、外側にはそれを凌駕する“カタチ”がある。だからこそ、世界というのはややこしく美しいのだ。

だから、自己を絶対視しながらも、苦く違和感のある他者が作る世界を、それぞれ“正義”として掲げ、その亀裂から噴き出す矛盾を浴びながら、朗らかに雄々しく生きて行かねばならないのが、人生の腹立たしいところである。

どうも、自然に折り合いをつけられないのが、情けない。結構生きているはずなのに。



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