凡庸雑記「優しさ」

優しさと美徳

” 優しさ”は日本人の美徳であるとよく言われる。

生来ひねくれている僕はとてもとても優しいなんて言えることができない存在だが、周りを見渡すと、確かに優しい。とても優しい日本人だ。

某乳酸菌飲料の販売員

いつも、昼前には某乳酸飲料の販売員が会社を訪れる。

大きな鞄を抱え、入口をすり抜け、働いている社員の側までやって来る。そして、法律で決まっていないはずなのに、買うことが一般人の責務のごとく、何になさいますかと屈託なく聞いて回る。

その時、仕事の手を止めて、わざわざ思案し、これ、あれ、と購入している。まるで、今日課せられた業務の一環のごとく。

販売されている品は、ほとんど腹には溜まらなければ、昼のおかずの一品にもならないものばかり。だから、これで空腹を満たそうとか言う下世話な思いはなく、純粋に購入に及んでいるのだ。

もちろん、さまざまな意見はあると思うが、販売している乳酸飲料の数々は、価格の割には量が乏しい。”健康”、それが絶対唯一無二の他とは変えることができない錦の御旗として掲げる世界的な食料品である。

思うに、いつも行くスーバーで陳列されていても、夕食のジャガイモや、ナス、栃木産の霜降り牛肉などは、手に取るだろうけど、その食料品はよほど目的がなければ、手に取り購入には至らないのではないかと確信している。

そんな商品をいかに売る

そんな商品を、だ。

ふらっと来た販売員に勧められるまま、いや、言葉では勧められなくても、近寄ってくるだけで精神的な義務感が生まれ、薄っぺらい財布から小銭を出すことになる。

確かに人の健全な人生を司る”健康”に、とても効果のあるものには違いないが、確約、保証されているわけでもないし、販売者と購入者が毎日出会えるわけではないので、習慣化にも心もとない。そして、この商品は習慣化が重要なのだ。

それならば、本家本元の販売店と契約して、直接、強制的に自宅に届けてもらい、支払いは月々クレジットでと言うのが、正しい買い方だと思う。

優しさを証明するために

で、身勝手な結論だが。

これは、商品の良さから、永遠の命を保証する”健康”を摂取する、幻想的な目的が購買の原因ではなく、ひとえに”優しさ”ゆえではないか。

今のような灼熱の太陽の元、はたまた数ヶ月後の極寒の吹雪の中、わざわざ重く大きい鞄を背負い訪問し、大変さを口にはせず(しかし、非常な重労働だということを、背中と微妙な表情で心の声高らかに歌い上げる。これが最大最強のツール)

ささやかな微笑みと謙遜な足音で近くに訪れ、さりげなく、購入者の自由意思で購入を即す。それに、日々の労苦をちょっぴりにじませた、ほんの少しの柔らかな世間話をすれば完成品となる。

さて何が完成するかというと、日々の生活の糧のために労苦を惜しまず”苦労”(そう苦労!)している赤裸々な人生が。

こうなると、日本人の敏感で繊細な”優しさ”センサーが盛大に反応し、もう瞬間、このれを買わなければ、人として大切な部分が欠場ている、欠陥を抱えてるのではないかと自己判断し、冷静に考えればさほど必要でないものでも、財布からワンコインを摘んでしまう。

一概に一笑に付すことは出来ず

個人的には、どうにもこうにもそんな”優しさ”対応を周りから感じたりすると、途端に天邪鬼になって、引いてしまうのだけど、一概に自分には合わないし、こんもん世の中から消えてしまっても、全くもってかまわない。とは、不思議でなく現実的に思えないところもあるか

自分の好き嫌いで世の中が回ったり、自分の人生が幸福になったりすれば、神様になった気がして高揚するには違いない。

でも、長いこと生きてくると、薄々どうもそうじゃないんじゃないかと実感する。正直、生き方が至極不得手で、あちらこちらでぶつかり生傷が絶えない人生を送ってきている。

あゝこれで人生は終わった。と頭を抱えた時に、意固地に自分の範疇で手を出さず、少しダメもとで、他人に委ねてみると適切な助言をもらえたり、直接的に許しを得たりして、首の皮一枚つながったことが結構あった。

こんな時、自分の感覚や感性や、知識や信念を大切にせよというが、意外にいい加減なもんじゃないかなあと実感してしまう。正直、悔しくて地団駄踏んでいるのだけど。

世界の人々からは陳腐に見える”優しさ”も、そう捨てたもんではないかもしれない。日本だけしか通じないかもしれんけど。

優しさ満たされて

と、いいことで締めくくるつもりだったけど、ちょっと”優しさ”が笑えないというか、意地の悪い僕にとっては、腑に落ちないことがあった。

友人の会社がこの間脱税で捕まった。

完全なワンマン会社で、脱税したのはそこのワンマン社長。噂ではうっすらとブラック会社だったので、いつか何かやらかすかなあと思っていたら、案の定ってところ。

財務関係はワンマン社長が完全に抱え込んでいたので、誰も脱税をしていることは分からなかったらしい。だから、誘惑に負けて手を出してしまったのではないかなあと勝手に妄想している。

つい先日まで、記録的な業績が出て、ボーナスやらが沢山出たと喜んでいた友人。今は奈落の底に叩き落とされた気分になっている。

で、何が納得できないのか、首を傾げていることがあったのかというと。

これだけの不祥事を起こしたから、とうとう社長はクビになることになった。かなり年寄りで、いつ辞めてもいいというか、もう、次に引き継がなきゃ未来がないと言われていたから、いいタイミング、天の采配ではなかったか。(勝手に思う)

このまま静かに机と椅子がなくなるのかなと思っていたら、友人の元に一通のメールが送られてきた。

それは、今まで長年苦労して下さった社長のために、皆で自腹で送別会をしようというものだった。

理由は無数にあるかもしれないけれど、会社の信用に決定的に傷をつけ、追徴課税等で事実的な損害を与え、これから裁判の結果によってはより深刻な状態になるかもしれないのに。

あくまでも自腹で自由参加のようで、参加するのも社長に可愛がられていた人間ばかり、かなりワンマンなので、気に入られているのといられないのとでは、待遇が雲泥の差。

だから、不始末を犯したと言っても、”優しさ”から無碍に捨てることはできなかったのだろう。

個人的には、会社への損失、残された社員の厳しさを考えると、どうだろうかと首を傾げてしまう。

もちろんこれは個人的な感情なので、この対応は必要善なのかもしれない。個人的には、諸手を挙げて賛成とはいかないけれど。せめて、自腹じゃなくて会社が出せばいいのに。なんて、思ってしまう。

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