凡庸雑記「愛着」変わらず人生を共にするもの

相手の時計

今日打ち合わせをしていた時、相手の時計が気になった。

とても綺麗で洒落たものだったので、話の合間についつい目線が向いてしまった。

この人はきっと、愛着を持って使っているのだろう、そう空想した。この時計を日々使い時間を確認する時に、絵も言われぬ満足感を得ているのだろう。

そう言えば、僕も昔こんな感じで、”愛着”を持った時計があった。

時間を知りたいために時計を見つめる。その時、時間を知るだけでない、愛おしいさと、満足感が心の中にふっと湧いてきた。

デジタル製品と愛着

”愛着”が湧くのは一体どんなものだろう。

Apple製品が好きで、MacやiPhone、iPadを一通り持っているけど、もちろん愛してはいるし、愛おしさを感じてはいるが、”愛着”をそれらに感じているかと言えば、ちょっと違う。

また、ようやく手に入れたNikonZ6に真摯に”愛着”を抱いているかと言えば、これまた少しズレている。

自分自身の中で、本当の”愛着”を勝ち取るためには、永遠とは言わなくても、ある程度長期間人生を共にする、できる、ものでないとと、思ってしまう。

デジタル製品は、どうしてもその短命さから、除外されてしまう。

一時、燃え上がるような熱情と、常軌を逸した愛情、そして、人生を変えるような利便性を、間違いなく与えてくれるが、人生に密接に寄り添えることは不可能だ。

永遠と愛着と

個人的に、愛着を感じられるものは、根本的に長期間使用しても、使用目的と結果が比較的に変わりなく得られるものだと思っている。

だから、数年で陳腐化してしまう、デジタルはどうしても”愛着”を持つことが出来ない、と言うか持つ前に消えてしまう。その、悲しさからあえて心が拒否しているのかもしれない。

愛着を持つ

昔、使っていた時計には、”愛着”を感じていた。

中古店で一目惚れして、即買してしまった。派手ではないが、力強さがある風貌を持ち、日本製のクォーツの正確さを宿している。着けていて、心から満足していた。

何より、時間を確認するしかない単なる時計だからこそ、時に影響されない変わらなさがあった。だからこそ”愛着”することを安心して持つことができた。

しかし、こんなことを書いたが、年がら年中使っていて、かなりやばい使い方をしてしまったせいで、愛し過ぎたせいで、リューズの心棒が折れ、壊れてしまった。

だが、もう使えなくなってしまったこの時計。どうしても捨てることが出来ずに、今も机の中に眠っている。

2万円で修理が出来るかもしれないようだが、なかなか踏ん切りが付かずそのままである。

本当の愛着

やはり、本当の意味での”愛着”は、ある程度長い間、変わらない機能を持ち、こちらの誠意に対して、着実に返答してくれるものに違いない。

カメラで言えば、銀塩フィルムのカメラだろう。

何十年前に作られたライカとか、個人的に好きなNikonF3とか、一台は持っていて、そいつにモノクロのフィルムを詰め込んで、写真を写して歩く。

空想しただけで、これは”愛着”の権化だなぁと、しみじみ思ってしまう。

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