凡庸”写真”雑記「エッセイ」人生そのものを写すもの

ポッドキャストでエッセイのことを聞く。

ゆるく、くだらないことから出発し、思わず膝を叩くような結論に導く。

楽しくて、それでいてなるほどと感動させてくれるエッセイが好きだ。

時々、無性にエッセイが読みたくなる。良いものはないかと、物色する時がある。日常で感じたとこを、少しの柔らかさと、絶妙な滑稽さ、そして生きる糧となるかもしれない人生観を知ることができる。

やっぱり、エッセイは人にとって必要なものだ。

だからこんな感じで、僕も日々、エッセイもどきをせっせと懲りずに書いている。駄文ばかりだけど。

話はちょっと迷走するが、昔、かなり昔。

こんな僕でも、あぁ芸術の神様が降りてきたなあと、実感することがあった。

今でも覚えているのは、「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」で、眉間を撃ち抜かれるほどの感動を覚えた米原真里氏が亡くなったと知った時に、それがあった。

瞬間、彼女の美しい滑らかな言葉(文章)が頭の中に湧き出し漂い。希少な天才を一人失ったと悲しんだ。

その時、背中を冷ややかな痺れが流れ、そして、頭の上を浮かんでいた言葉が、頭の芯に垂直に降りてきた。

急ぎ言葉を束ね、一気に書き綴った。いつも迷走している言葉が、その時は堰を切ったように勢い良く流れ出し、気がつけば彼女への思い丈全てが、気迫に満ちた直線的な文章になっていた。

気恥ずかしさを押し殺し言えば、自分と芸術が直結した感覚がその時あった。生まれた文章は、正真正銘、誇らしく自画自賛すべき創作物だった。

事実、他者も評価してくれ、日頃ほとんど見向き守られないブログだったのに、その時だけは、複数から”いいね”を表してくれた。

残念ながら、一体どんな内容を書いたのか、どこにいつ書いたのかすっかり忘れてしまい、妄想レベルの出来事だ。だけど、確かにその時、その瞬間は、芸術の神々ととても近しい間柄だったというのは、記憶の中にこびりついている。

真に神がかった文章は、最近めっきりお目にかかれない。自分の中に、美しく創造に満ちた芸術が宿ったと感じ、その証明として背骨全体が痺れる感覚は、遥か彼方に遠のいてしまった。

あのように、毎度毎度文章を書けたら、文章の生き神として世の中から称賛されるのにと、身勝手なことをぼんやりと考えては、いつかあわよくば、創造の美しき神々のいる場所に辿り着きたいと願って性懲りも無くこうして書いている。

エッセイの話から、自画自賛支離滅裂の話に流れたので、この辺で終了。

↓人気ブログランキングに登録しています。記事がよかったらクリックをお願いいたします。


人気ブログランキングへ