凡庸雑記「趣味」自己自賛で没頭するその意味と価値

大したことがない我が創造

こうして日々大した賞賛も同情もなく、文章を書いて、写真を撮っている。

あゝ断っておかなければならないのが、こんな世界の片隅で、経歴も地位もない一介の男に、ありがたくもいいねをしてくださる方々には、只々、ありがたく思っている。

それで話は戻り、日々誰にも望まれず、強制されず、何か知性や理性とは別の世界の衝動と渇望で、こうして書いて、撮っていることを、時々我に返り知性と理性で解釈しようとすると、途端に意味も価値が無いまま、腹立たしくも遊び呆けている現実に打ちのめされる。

放逐を繰り返しても元に戻る創造欲の謎

そこで、正しい生産的な大人の人生ならば、そんなものは役立たずは駆逐せねばならんと、すぐさま人生から放り出す。

それなのに、しばらくすると、意味も価値も無く、生産性の欠片も無い創作活動を、正真正銘の拙く不細工な遊戯たるそれを、ぼろぼろ始めてしまう。

それはいったいなぜだろうか?

どれほど、艱難辛苦を超え、時間と汗と思考を浪費したところで、何万人の人々から賞賛され、アカデミー賞や、ノーベル賞を取ることは叶わないだろう。

それどころか、数百名の愛すべき同志と絆を得ることも出来ない。そう確信し清く諦めている。

多くの感情の高揚を束ね、見まごうばかりの楼閣を築いている天才は、押し並べて輝きを持っている。その、透明無垢な光は手が届きそうで、届かない。天が広い地球に与えた、狭く少ない圧倒的な創造力そのものだ。

本来ならばありとあらゆる利益を求めるべき

そこまでの考えにいたると、自ずと万物の霊長たる、人間の高い知性は結論を出す。

不必要な創造は、それへの渇望は、即刻切除し、その空白に、社会的地位と、金銭的優越と、他者から排除されないために、希少価値がある存在になるため、ひたすら切迫しつつ、なりふりかまわず、古今東西の知識と戦術、戦略を身につけなければならないと。

だが、そのように頭の中では結論を出すのだけど、ハイそうですかと賢く立ち回れたら、今の侘しい人生などは、白昼夢の如く幻として消え去っただろう。そうはなれずに、いつも頭を抱えて呆けているのだ。

哀れにも日々増殖する創作への欲求が捨てきれず、金が無いのに新しいNikonのレンズを、買う算段をしている始末だ。

なぜにただの創造を浪費する

ここで考える。どうして、意味もなくこうして創作とカッコつけても、どうしたって幼稚園のお遊戯レベルの事を、繰り返し繰り返し行うのだろうか。

それは、人が人故にもつ自然の発露か、はたまた天空に漂う電磁波か何かの障害か。

無意の創造にも意味と価値があった

その謎がある面、解けたかもしれない。ある雑誌を何気なく読んでいたら、最近欧米の経営者や政治家、芸能人たちがはまっているマインドフルネスのことを紹介していた。そこで、お坊さんだったか、マインドフルネスのことを説明していた。

そこで、マインドフルネスをどこかに通ったり、どこの誰かに習ったりしなくとも、何かに没頭することで同じ効果があると言っていた。そのために趣味がとても良いらしい。

自分の好きな趣味に夢中になることは、一つのことに意識が向けられている時間。これがとても良いようだ。現に、趣味に没頭している人は、誰しも幸せそうだと、語っていた。

だから、僕がさほど効果も価値も無く、こうしてひたすら文章を書き殴り、Nikon Z6でやたらめったら近所の田舎道を撮っているのは、他人のためでも、他人から僕を称賛して欲しいわけでもなく、(本音ではあるのだけど)それは自分自身の心のために行なっていることになる。

誰かとの優劣ではなく、社会への貢献ではなく、徹頭徹尾私的な世界の中での、自分自身で自分自身への救済の為に行なっているのだ。

これを考えるに、あてのない創作への彷徨と衝動の意味は明白である。これは全て自分自身のためにあるのだ。自分の中から湧き出す何かを形にすることの、無意味さに悲しんだりするが、そう意識を変更すると、こうしてたわいもない事を無我夢中に書きちらかすのは、胸を張り、威風堂々と行うべきことだと思う。

なんたって、世界で唯一無二の自分自身を、愛し育むために行う事なのだから。

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