凡庸雑記「年の初めの思い」人のためには“戦い”が必要なのか?

明けましておめでとうございます。

とうとう、こんな台詞を言わなきゃいけない時が来てしまった。まだ、まだ、2022年が食い足りないのに、気の早いウェイターに2022年の皿を引っ込められ、2023年を乗せた皿が目の前に置かれてしまった、そんな気分だ。

1

今年はどんな年になるのだろう。他人事じゃ無いから、こんな無節操な考え方をしてはいけないのだけど、自分の力では如何にもこうにもならないところがあるので、とりあえずは、今年は身を潜めて、なすがままに生きていくつもり。

そう言えば、昨年から会社がややこしいことになり、全く新しい体制で進ことになった。そのせいで、大きく考え方が二分して、双方が相入れない状態になっている。

そこで、今年は“多様性“を考えてみたい。

人それぞれに考えがある、人それぞれに生き方があり、好きなもの、嫌いなもの、趣味趣向がある。と、昨今、散々意識高い系の人々がアナウンスしている。それに、一般人の多くは真面目に頷いているはず。

僕も一般人Aとしてその中の一人。

だけど、世界中で声高に叫ばれている“多様性”を、どれだけ日々の生活の中で、実感し、受け止めているのだろうかというと、甚だ怪しいものだ。

会社が二分していると言ったけど、それぞれがそれぞれの考えや、環境からの思想や理想を受け止めているかというと、拒否するだけで単一化に突き進んでいる。欠点のみを視野の中に収めて、相互の利点や美点は蚊帳の外だ。

互いを理解するために、じっくりと話し合えばいいのだけど、理屈ではない、生い立ちの奥底から湧き出る感情的な部分が邪魔をして、なかなかこれが上手くいかない。

人民に対し美しく優しい民主主義が、凡庸な僕たちが考える想像の範疇を超えた、難しさと面倒さがあるのは、理屈や理論の背後に感情の部分が棘を刺しているからじゃ無いだろうか。

だから、大人しくにこやかに話し合えば、なんとか人は相互理解を進めて、明るい未来に一つになって進んでいくことができる。なんて、とてもとても難しい現実である。

民主主義の大国も、確か二大政党とか作って、違う考えを真っ向からぶつかり合わせている。民主主義というと人の心を尊ぶ軽やかで朗らかな気がしてしまうが、事実は違う考え同士で、血で血を洗う戦争をしている。その中で互いをギリギリ削り合いながら、ようやく背後に潜む感情が消えて、丸く輝くようになる。じゃあ無いかなと思う。

民主主義を使いこなせる、肌でその芯なる意味を知っている人々は、その真逆の“戦い”を行わなければいけないことを知っている。

だから、良いのかもしれないけれど、民主主義が根付かず、それ以上に理解されないのは
その辺があるのだろうか。ようわからんけど。

確かに、会社でもこの間年末の会議があったけど、個人的にはかなり確信をついた、質問と提案をしたつもりだったが、それに対して真っ向からの反論や回答は無く、論点をずらした内容を、それも感情の爆弾に込めて返してきた。おまけに、上司としての権威に包み。

こうなると、はなから議論が成立せず、問題解決の糸口、民主的な方向の模索など、得ることができない。

もちろん相手は、僕よりも高学歴、高地位、高収入、おまけにイケメン。至極真っ当に知性が高く、弁にも長けている。日頃はビジネス書をいくつも読破し、自ら率先してコンプライアンスがどうのこうの宣う。とても立派な社会人の典型だ。

それでも、“戦う”ことを手に取れない。

何か別の力で、物事を自分の有利な方向へ、ひっぱり込むことに終始専念している。

それに対し、彼の頓珍漢な返答を合図にと、このご立派な僕は、あゝこの辺で考えを引っ込めて、会社人として打ちのめされる前に黙れよという、空気を察し、これ潮時と這う這うの体で、退散したのだった。

僕も彼も、“戦う”にはあまりにも勇気と知恵がなさすぎる。今年は………………..やっぱり変わらずヘタレのままやろうなぁ。

なんだか、新年早々、とんでもなく変なことを書いてしまった。アホなのにほんまに柄にも無いことを。そう、楽しいことばかりじゃない、きっと、この一年。なんとか、逃げ隠れしながら生き抜こうと、心新たに決意したのであります。

それでは、今年一年。気が向いたら、読みにきてください。よろしく。

あれ、多様性の話から、会社の愚痴みたいになってしまった。これは、今年一年前途多難の象徴か?恐ろしや、恐ろしや。まあ、多様性を尊っとぶ民主主義はずだけど、それを使いこなすのは、ちゃんとした“戦い”を行わなければならない、厄介なことだ。

↓人気ブログランキングに登録しています。記事がよかったらクリックをお願いいたします。


人気ブログランキングへ