凡庸雑記「ぼんやり」脳には休息が必要と耳にし目にして。

ぼんやりの必要性

ぼんやりとする時間が必要らしい。

人間の中で一番働いているのは、脳らしい。だから、大食感でかなりのエネルギーを消費している、らしい。

特に現代人は、いろいろと考えることが多い。昔は体を具体的に動かすことが主たる仕事だった。それが、今は体は動かさず、頭を動かすことが仕事になった。

それどころは、脳を働かせる比率が、体を働かせるよりも多いほど、地位が高く、お金持ちになる。

だから、ぼんやりすることが、とても大切になった。

それでも脳は疲弊する

脳も人の一部だから、手足のように、酷使すると疲れて、壊れてしまう。具体的に怠く、痛くなったりしないから、そのまま放置してしまうのだけど、確実に着実に疲弊する。

悪いことに、今や脳が興味を示すものが、身の回りの山のごとく、海のごとく、僕の借金のごとくある。休めようにも、気がついたら意識を集中させ、脳の中に思考を走らせる。

これでは、本当の意味で休むことができない。本来、休むべき時に休めなかった結果、必要な時に必要な結果を出せない。正しい判断、正しい発想が得られない。

時々は、脳を完全に休養させ、次の活躍の時まで、英気を養ってもらわなくてはならない。

なんてことを、最近よく耳に、目にする。

思いつつもできないぼんやり

そうだなあ。と、想う。

そうだなあと思いつつも、真剣にぼんやりできないとも思う。休みの日、出張の移動の新幹線の中、仕事の昼休憩。それから、寝る前の布団の中。本来ぼんやり出来て、しなくてはいけないそんな時。

自分ではぼんやりしているなあと、お金にならないことをしているのだから、上司の機嫌が良くなることをしていないのだから、と、ぼんやり自画自賛をしていが、手に持っているのは、iPhoneだったり、iPadだったり。それで、下世話なニュースをあてどもなくスクロールしたり、YouTubeでカメラ系の内容をお勉強と称して眺めたり。

そのうち、そんなこっちゃいけんと、ブログの文章をポチポチ打ち始めたり、Lightroomでこの間撮った写真のRAW現像をしはじめたり。本のちょびっとの隙間時間ができれば、なんだか背中をナイフで突かれるような気分で、始めてしまう。

つまりは、その間、脳は休んでいない。

ぼんやりの思い出

ふと、思い出してみる。そういえば、絶対的に確実にぼんやりしたのって、いつだろうか?

子供の時、屋根瓦の上に干した布団に寝転がった時か、はたまた、深夜便のフェリーの中、満天の星を望みつつ、そよぐ風に身を任せた時か。それか、疲れ切った出張帰りのバスの中、外を惚けた顔で眺めていた時か。

今、この瞬間、僕は、ぼんやり、しているんだ。と、心に刻んだ時は意外と数えるほどしかない。まあ、そもそもぼんやりしていること事態、記憶の残る種類のことではないのだけど。

ぼんやりの仕組み

ぼんやりしなくてはいけない、だけど、現代はますますぼんやりできない、させない、してたまるか。の、三ない運動(?)。

この点、さすが頭の良い欧米の人々は、時間を決めて、完全にぼんやりしているようだ。マインドフルネスと勝手に名前までオシャレに付けて、流行らせている。

何事も、問題があると、具体的な仕組みを作り、誰もが一定量行え、数値に表せられる具体性のある結果に結びつける。欧米人の他人の人生に堂々と踏み込むおせっかいな行動力には本当の関心する。日本では、こんなこと、山奥の坊さんが腹を減らせてやっている禅だとかなんだとか言うものだろう。だから、関係ないと一蹴して終わりなのだけど。

慌ただしい人生のぼんやり

やること、やるべきこと、やらなきゃいけないこと、人の生の中には楽しくも、厄介で、大切なことがたくさんあるけれど、急がば回れ、陽の光の温かい午後ぐらいは、正真正銘のぼんやりでも、嗜んでやろうではないだろうか。

と、言いつつ、ちょっと時間に間が空いたので、こうして、頭を捻りながら文章を書いているのだから、どうしようもない僕の人生。