小説を書いてみるには、客観的な意識が必要。夏目漱石小説の秘訣。

日曜日でもブログを書こうと決めている出来ですが、どうしても、休みのモードに入ってしまい、書けずにいます。さて何を書こうかと考えてしまって、この間見た映画のことか、読んだ本のことか、それともEl Capitanの不具合のことか、いろいろ考えていたら、結局は書けずに終わってしまいます。

書こうとおもうならば、最後まで諦めずにとにかく書き終えることが必要なのだと、誰かの本で読んだ記憶があります。再考を求めることも必要ですが、ある程度のところで完結させる潔さも必要なのでしょう。

そういえは、この数日とんでもないことがたくさん起きました。詳しいことは全く書けないのですが、人生久々の旧知の状態です。とにかく今はそれを受け止めるのが精一杯で、冷静に考えられるのは、ましてや、具体的な解決に向けての行動をとれるのは、まだ少し先になるかもしれません。

こんな時こそ、何かを書くことはいいことかもしれません。自分の現状を冷静に判断して、見つめ直すには書くことが一番いいと聞きました。問題を抱えて、どうしても気持ちが沈んでしまう現状ならば、一度書き出してみるか、物語を書いてみてもいいのでしょう。

物事を冷静に見つめて、現状を判断して、比較的に正しい行動にするには、物事を引き離してみることが必要です。書くことはそれが一番簡単に、確実にできることなのかもしれません。

書くこと自体が、絶対的な客観性を必要としている行為なのでしょう。

そういえば、夏目漱石が小説家志望の青年に、ウィンドウシッピングが好きかと聞き、青年がそんなことをするぐらいならば、机に向かって小説を書くと返しました。その言葉を聞き、漱石は君は小説家に向かないと言ったとのことです。

ただ歩いて街中の店々や、人々を見ることは、世の中の風情を目や体で知ることができます。無駄のようだけど、自分の存在を消したその先に、世の中の現実と感情が体に入ってくるものがある。多くの発想が生まれてくる原因が、その中にあるに違いありません。

対象を客観的に見尽くす。それが本質的に備わっているのか。それを、見極めるために、漱石は小説家志望の青年に、ウィンドウシッピングの好悪を聞いたのでしょう。

確かに、漱石の小説は、徹底した観察眼で書かれています。多くの人の立ち居姿、世情の流れ、所作から匂い立つ感情の表情を、巧みに豊かに、冷酷に小説に転写しています。彼の小説を読めば読むほど、本当に現実を痛いほど、肌全体で感じてきた人なんだなあと、気の毒に感じます。

ある面、その苦しさを吐き出すために小説を書いてきたふしがあります。とにかく書かずにはいられなかったのでしょう。清濁併せ持った世の中の情念が、創作の思いに変がし、切羽詰まって体内から湧き出すそれが、彼の芸術です。冷静さと、悲哀と、残酷、そして、徹底した美。愉快なものでもそれを感じてしょうがありません。残念ながら、彼が受けたよな中の風情というのは、良いものではなかったのではないかと感じてしまいます。しかし、美しいものではあったようです。

余計なことを書いて、結構経ちました。もうそろそろ終わります。これからも、冷静な自分を保つために、今のことを書いていくつもりです。それがいつが、芸術の世界まで、羽ばたいて行けば嬉しいのですけど。