時間ができたので気になっていた「天気の子」を観てきた

時間ができたので気になっていた「天気の子」を観てきた。

久しぶりの新海誠監督の新作。少し期待しつつ、それでいて期待をしないように自制しつつ映画館に入った。

彼の映像表現はとても素晴らしい。

ただし、美しい映像をただ流すだけならイラストと変わらない。動きのある動画作品として活かすためには、意味と流れが必要だ。

この作品ではその平均律がとても良い塩梅だった。時間の流れは伊達ではない新海監督はその時間を使い、より熟考し、表現の術を練り上げた。そう、感じる。

とくに僕が好きだったのが、物語の展開に思い切り引いた絵を作り、登場人物を俯瞰して捉えていた場面。激しい映像の連続がその瞬間、切れ、空に浮かぶ彼らのように、僕の気持ちも物語の中に浮かぶ。

その緩急が、激しく流れる物語と感情を捉えるきっかけになっている。

物語の緊張感を高めるために、次々と場面展開を繰り返し、観ているものの気持ちを捨て置く作品が多い中。彼の映像的感性はそれを許さない。作家としての自制心に敬服した。

ふと思ったのだ、彼は色彩と旋律を同意語で捉えることのできる作家なのではないかと。

映像を観つつも、音楽が流れ、音楽を聴いているのに映像が符合する。

そういえば、村上春樹氏の作品もそうだった。文章を追いながら、文章の中から湧き上がる音楽。心地よい旋律にいつのまにか酔いしれる。それで、僕らは心地よくなる。

すべての美しさを求めた結果が、深いところで語り合い迎合する。絶対音感を持った映像作家だと感じる。

物語自体は先回の作品「君の名は」が、あまりにも記憶に残っていたため、すこし希薄に感じてしまった。かの作品をすこしミニマムにした感が拭えなかった。

最後の展開で物語に感情を持っていかれそうになった。が、思いのほか上空には飛ばされなかった。なぜだろう。

気づいていない隠喩があまりにも多いのかもしれない。カットやほんの少しの会話の端々で引っかかりを感じる部分が多い。それは、鮮明に語られることはなく、最終的に収集し品評されることもない。

心に疑問が残るだけだ。

そのせいか、妙に霧がかかったような読後感がある哲学書を読んだ感じがする。

そして、隠喩のおかげで物語が唐突に展開し、理解乏しい者のために、娯楽作品として最低の基準値に置くため、音楽と映像を糊として貼り付けている。

あれほど映像が豊かに旋律を奏でているに反し、物語は数多くの隠喩を含む古文書のようになっている。

この間見た「海獣の子供」もそうだった。

岡田斗司夫が前に語っていたのだが、アニメ監督は隅々まで深く考えて作品を作る。高畑や宮崎両監督のみならず、アニメ監督は全てそうだと。彼自身もアニメ監督を経由しているのだから、真実味がある。

多くの監督はそれら物語に潜む本質を見せずに、娯楽作品として作品を完成させる。と、語っていた。

この「天気の子」もそうに違いない。表面的には思春期の少年少女の愛の物語と、恵と犠牲の物語だが、その中に、幾重にも人の心の物語が内包されているのだろう。きっと。

それを理解するために、幾重にもこの物語を観なければならないし、観ることができる作品なのだ。

この作品から、一回ぐらい観ただけで、わかったと思うなよ。と新海監督の意思が聞こえてくる。

最後に、思わずニヤッとしてしまった。「君の名の」主人公の元気な姿を見られたのだから。

いろいろ賛否両論のある物語の収め方。彼らの選択の結果だが、実にシニカルで面白い。今後、こんな映画が出てくるかもしれない。僕ならもっと皮肉を込めて、絶対的な愛情と命を救うために、世界が消え去る。そんな、物語を大真面目に作るかもしれない。

犠牲になって全てが救われました。救われてかつ多数の命も守られた物語は巷に多くある。それと違い、純粋で高尚な愛の結果。その、背後で圧倒的な悲劇が起きる。そんな物語。我ながら意地が悪い。

世の中こんな話の方が、実際には多いのかもしれない。

それぞれの、正義以上の存在。愛がある。それは、それぞれの相対的な環境や条件により変化して、その愛を守るためには、別の愛を葬らないといけない。

だからこそ、人は強くなり、強固な憎しみを持ち、争う。

愛というものは、必要だけど、やっかいなもの。なんだか、「天気の子」を観たあとにこうして感想みたいなものを書いてきたら、けっこう変な方向に流されてしまった。

降り続く雨のせいにしておこう。

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