こんにちは僕は万年筆です。ご主人に買われて、今飼われています。種族はペリカンというらしいです。

なんというか物に釣られやすい性格のご主人が、自分で言っては何ですが僕のような高級な筆記用具を持ちさえすれば、創造性を発揮して、そりゃもう誰からも賞賛されるクリエイターになれると妄想してインターネット通販で買ったのです。

結果は、想像されている通り、創造ならぬ想像いや夢想で終わったのです。こんな夢ばかり見て、結果は雀の涙のご主人との日々を呟いて行きます。

さて、今日のご主人はどうだったのでしょう。



ご主人、柄にもなく「芸術」に一言あるとのたまわっています。自分では“美しさ”が人一倍判っていると自負しているのです。

僕を手にとっては、一人「素晴らしい書き味だ」と、ほくそ笑んでいる気持ち悪さです。自慢じゃないですけど、舶来の有名な万年筆ですからね。そりゃ、その辺の万年筆とは質が違いますよ。

別にご主人じゃなくても、判るってもんです。

そんな思いはご主人にはもちろん伝わることはなく、特別なことを判る、特別な存在だと、勝手に誇っているご主人の姿を眺めるしかないのです。

美意識の高さを内に溜め込んだご主人。それがですよ、高貴な家系に生まれ、お腹の中から出る前から、空気のように「芸術」に包まれていた人ならともかく、素晴らしい自然に囲まれた“ど”の付く田舎で、山で筍を、川でザリガニを取っていたような幼少のみぎりを過ごしたご主人が言うのですから、怪しいったらありゃしない。

本当に「芸術」、判っているのでしょうか?



たしかに、ご主人「芸術」作品。創作、創造にとても気持ちが惹かれているようです。好きなんですね。常々、“美しさ”というものは、何よりも上にあるべきだとのたまわっています。

創作活動から生まれる作品であっても、自分の思想や心情、それどころか怨念や悔恨を形にしているものがある。それは、到底芸術品ではあり得ない。美しさで誤魔化した私的な吐露でしかない。

そんなものを見せられると、無性に腹が立ち悲しくなる。“美しさ”の扱いが不憫でならない。

なんてことを言うのです。田舎育ちで知性のかけらもない男がよくも言えるものだと思ってしまいます。ちょっと言い過ぎですか?



その生い立ちのせいでしょうか、ご主人、身に余る「芸術」を、無闇に求めるところがあります。世の中が見向きもしなくなった、過去の遺物といえるようなものをかき集めては、その偏屈性を美化して、人とは違う特殊な美意識を誇らしく振りかざしています。嫌ですね。

音楽はクラシックだとか、あの時観劇したオペラは自分の最高の経験だったとか。映画はヨーロッパの作品で監督中心作品でないといけない、今じゃほとんど巨匠といえる監督が亡くなってそれが、途絶えて残念だ。夏目漱石の「三四郎」に描かれる語らない女性主人公の内面の多彩さ。うんぬんうるさいほどに。

そんな感じで、「芸術」に対して、根拠もない自信を持っているご主人。

自分はこれが判るぞとばかりに、いろんな「芸術」に手を出して過ごしているのです。



しかしながら、残念ながら、すべて生活には役に立たない、お金にならない事ばかりにうつつを抜かしているのです。高尚な生活が実利に結びつく才のある人も多いのですが、不器用なご主人は全くその辺は縁がありません。

それだけ好きならば、理解できるなら、必然的に自分でも創作品がを創造することができるのではないかと、想像するのが人の常。ご主人も漏れなくその悪癖に身を侵されているのです。

なにやら自分でも“美しさ”を生み出すことができる。できるはず。なによりもこんなにも、美しいものに敏感に反応し、理解できるのだから。と、あられもなく、そんなことを考えちゃっているのです。

ほんとうに恥ずかしいご主人の妄想が伝わってくるたびに、僕はインクの出が悪くなります。



自分の秘められた才能を、自らの手で発掘してやろうではないか!そう、思い立ったご主人、なけなしのお金を使っては、「芸術」を創造する品を買い求めたのです。

いったいどれほど使ったのでしょうね。文章で他人を感化させようと意気込んで、ブログを書き始めました。そのうち、ブログを世の中に知ってもらうためには、サーバーを専用で用意する必要がある。ドメインなる名前みたいなものも自分用にと、それも契約しました。

おまけに、なんと創作活動をするなら、やっぱりMacでしょう、Appleでしょうと、借金までしてMacBookProやiPad Proを買ってしまったのですから。憧れ?妄想?憧れている創作者の紹介記事でMacを傍らににっこりと笑っていたから。村上なんとかが使っていたから。そんな、僕としては妄想としか思えない事でなけなしのお金を惜しげもなく投げ出すだなんて、理解できません。愚かです。

それに、それじゃない人も無数にいます。所詮道具なんですから機能が果たせればそれでいいのです。僕がドイツ生まれでしょうかどうにも論理的ではありません。



それで、せっせと時間を作り、毎日のように、(これもどこかの人が毎日書けば誰もが認めるブログになるなんて言っていたから)書き続けました。

でも、判ったことは、他人を引きつけて感化するブログを作れる人は、ものの数ヶ月で評判が立つということ。時間じゃないんですね。

見事にご主人の努力は徒労に終わったのです。



他にも、写真なんかにも手を出しました。これもあれこれお金を工面して一眼レフカメラを手に入れました。これもとにかく写せるものならいいのに、手に入れられる中で一番高価で性能の良いものを手に入れました。

僕自身もご主人の妄想の一つなのは違いありません。

うっとりと僕を見つめ、文具雑誌なんかで選びに選んだノートに、人が読むことができないだろう文字を書き綴る。ご主人そのことで、琥珀のようなたおやかな光を放つ言葉の流れを生み出せると信じたのです。

そんな妄想の結果として、不釣り合いの僕を買ったのですから、人の妄想と言うものは、現実を透明にして、常識を瓦解する、摩訶不思議な力を持っているのだと感じました。

ただ、世の中というものは、理解できるものが、優れた結果を産めるものではありません。



古今東西。誰よりも理解したものが、手に入れるべく全てを愛し、全てを捨てて、自らを信じ投げうち、生きた結果。あっさりと、不遜な輩の才能の前に、はらはらと散っていくことが多々あります。

音楽家でそんな話があったようななかったような。

百歩譲って、ご主人、人が見れないもの、感じられないもの、それらの中になる“美しさ”が理解できたとしても、それを自身で創り上げることは無理。なにか、根本的な部分が足りなんです。

ある種の細かさ、正確さ、細部に宿る美しさへの配慮と根気が無いのです。正確にいうといい加減なんです。なにもかも。

天才は努力できる人。なんて言葉を誰かから聞いた覚えがあります。それからすると、ご主人は、美しさの創造こそすべてなんてのたまいながら、それが要求する現実的な努力から逃げているんです。

ああ、なんとも愚かなのでしょう。



ちょっと難しくなると、いつもウトウトと眠たくなるし、時間ができたらやるといいつつ、出来たらできたで、すぐ気晴らしとつまらない事ばかりしています。

こんなご主人ですから、「芸術」から程遠い。あらゆる世界の美しさを求める人が、どれほど精根尽き果てても求め続け、人によっては滅んでいったか。ご主人は“美しさ”の代償を何も見ていないんです。

文章を世に広めるなんて言ったって、ちょこちょとブログに書くぐらいです。少し前まで、文章の才能を世の中に問う人は、僕のような万年筆を手にとって、原稿用紙に文章を書き連ね、それを、出版社に持ち込んだり、投稿したりして、第三者の壁を超えていったのです。

いや、ちょっと熱が入っちゃいました。



もうそろそろこれでやめとかなくては、ご主人に見つかると、またへこんで何日も僕を使ってもらえなくなりますから。

さて、「芸術」とご主人。

あまりにもかけ離れた存在が、こうも愛し求めてしまうだなんて、人間とは不可思議なもの。まだまだ、人間を研究しないといけませんね。

あ、それからころはフィクション。架空の物語。たぶん事実ではありませんから、あしからず。万年筆が話すなんてありませんから。






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