哀れな男の一代記「ジョーカー JOKER」ネタバレありですよ。

ジョーカ―とかカッコいい映画の様ですけど、僕としては同族嫌悪しかわかなかった。

なんたって、完璧に敗組人生の男の一代記なのですから。

今の世界から捨えられる男の姿をド直球で描く。別にジョーカーでなくても良かったのではと思ってはみたが、ジョ―カーでなければもう見てられないほどの哀れな物語。

バットマン映画をクッションにしたから、誰もが観て楽しめる映画になった。それを抜いて社会派映画としてインデーズで撮っていたらここまでにはならなかったはず。

それにしても今回のジョーカーは滑稽で仕方がない。やることなすこと滑りまくり、悪い方向へゴロゴロ転がり落ちていく。完全に巻き込まれ形なんです。何かの冗談かと思えるほどに運が悪い。

仕事の仲間から強引に銃を渡されたその時から転がり始める。初めての殺人も偶然のり合せた男たちから殴る蹴るされた結果。堪忍袋の緒が切れて、渡された銃に手が伸びてズドン。

たまたま殺したのが、超エリート。そこから、低所得層と高所得層の格差問題に火が着いて。頼んでもないのに、革命のアイコンとして奉られてしまう。

だから、カリスマ的な話術や、天才的な戦略など、一切無し。街で暴徒が暴れていても、自分の身の回りで手一杯。そんなことは勝手にやってと我道を行く。と言いますか、大切な母親は倒れるは、実は養子で幼い時に虐待を受けていたのを、思い出して笑い病の原因が分ってしまうは。

挙げ句の果てに、大々尊敬していたトークショーの司会者に笑いものにされてしまう。

踏んだり蹴ったりとはこのこと。

最後の駄目押しが、心の支えと信じていたシングルマザーとの日々が、あっと驚く一言で吹き飛んでしまう。彼の精神が根っこから腐ってしまっていることを知ってしまうのです。ここの演出は思わず唸ってしまった。

狂気が走り始めた彼は最後の場所として、出演依頼があったトークショーに行き。自分の思いを尊敬する司会者に投げつける。そして・・・。

かなりネタバレで書いてしまいました。

ジョーカーと媒体として現代の闇を思つ存分映し出した作品です。障害、貧困、虐待、なによりも僕として心痛かったのが、夢と言うか、今までの苦しみを意味ある事に変化させてくれる希望が潰えたことです。

同族嫌悪と始めに書きました。彼と僕は似ているのです。

どうしても分からない部分が人には、その心にはあります。僕の場合は常々創造者になりたい。その欲望があります。自分自身の内から美くしさを形にし、世の中に掲げ賞賛されたい。それが、凡庸以下の人生に対する希望であり復讐なのです。

しかし、遠く俯瞰して見れば一目瞭然。

人から賞賛され、引きつける創作は少し触れるだけで、輝きの差が分る。文章にしても、写真にしても、絵画にしても。何か違う。知性なのか、能力なのか、努力の結果なのか。分かりはしないし、どうしたら到達できるのか分からない。

凡庸な僕がただ言えるのは、何か根本的な、でも、些細な部分が違うとだけ。

心の中では些細な違いが大河の様に広いと分かっていても、どうしても捨てられないし、止めることができない。敗け戦なのに前進してしまう。

今回も外から見てみれば、哀れで滑稽で見ていられない。それでも彼は人に笑われるのでなく、笑いを届ける存在になりたかったのでしょう。それを理解してくれるささやかな人との繋がりを育くんで、貧しいながらも自分の生きる場所を得たかった。

純粋な希望。

それが、裏返った時、悪を届け、笑うジョーカーとなる。

彼を受け入れず、希望を消した人との繋がりは、私的な事実です。社会に対して、大きな悪を行い悲鳴を降り注ぐとは思っていないふしがある。だけど、彼の精神が希望を捨ててゆくのに呼応して、社会に怒りが満ち、彼を象徴として掲げてゆく。

彼の私的な絶望と、社会を覆う絶望と重なり合う。

富むものと富まざるものの差。それを隔てるのが努力と知恵の差であると世の中は、主に富むものは主張する。それだけでない隔たりが世の中には満ちているのにもかかわらず。

完全な悪、そこに潜む社会の病理。ヒーローものとして生まれたバットマン。そこで、完全な悪として描かれるジョーカーに、阻害された哀しみが宿っていると言う、灰色の物語として描いています。

最近、日本でも騒がれ、世界で問題視されている格差社会の根本を、清濁込みで描き切った意地悪い作品でした。

それにしても、悪の権化なのに今回にジョーカー。とっても目が悲しいんですよ。人を殺すときも。ヘラヘラ何も感じず殺しまくる古今東西で描かれ尽くしたサイコパスとはちと違う。

ここに違和感を感じたにも事実。でも、あの悲しみがあったこそ、拭おうとしても拭えない現場の苦しみを表せたのに違いないのです。

ジョーカーとは違う。しかし、媒体として表現したいことを描いた作品でした。

映画とは全く違うにですが、一つ離れた席に座ったおじさんがものすごい悪臭で、映画の内容に集中できませんでした。おじさんが悪いわけではありませんが、もう一度、じっくり見直さなくちゃと、思っています。

それにこの作品、一回だけじゃなく、何度も見返し消化する必要があります。

少し残念と言うか、気になったのが監督の力量が、フォアキンフェニックスの狂気に満ちた演技に追いついていなかったと感じたのです。彼の演技を邪魔しないように、完璧な防御の演出をしていました。

でも、受け身ではもったいない。彼の演技を破壊するぐらいの演出があればと観ていました。この映画にオマージュとしてキングオブコメディが取り上げられています。

この映画はスコセッシの乾いた演出と、デニーロの狂っていく男が、みごとに噛み合った作品です。これ以上を期待していたので、演出の引きが残念でした。

まあ、また観ないと本当のところはわからないのですけど。

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