「この世界の片隅に」に足がふるえる。

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今日「この世界の片隅に」を観る。

足が震えるほど体に残った。

この感覚はどういうものなんだろうか。

呆然としている。

映画を見ている最中は、軽く睡魔を感じるほどに、流れを追っていたのに、映画館を一歩出たその瞬間。彼女らと離れてしまった喪失感が半端では無かった。

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もしかしたら自分はとんでもないものを、観たのではないか?そう思った。

この映画を絶賛する有名無名の人々の言葉から、余計な感情の振れを生む、巧みな喜劇と悲劇を、身勝手に想像し期待していた。

しかし、そんな月並みな感情の操作を、作者は全く捨て、あえて、なんだろう…。もっと、生きているそのままを、自身の意図するところで、真摯に描き続けた。

そのままの人生を、そのままの人間が、ありのままに生きているならば、そこには、他者の目を引きつけるような悲喜劇などは、いらないだろうと。

だから、この映画は誰もがその意図を受け止められるものではないと思う。正直、余計な色で観てしまうと、予想に反し落胆するかもしれない。

僕はそうだった。

観てる最中、確かにいい映画じゃないかなと思いつつ、一足も踏み込められない、お粗末な自身の感情のひだに、歯がゆさを感じ続け、選択への後悔の影がよぎった。

しかしだ、呆然とは言わなくとも、放置された心持ちのまま、観終わった人並みに流されながら、映画館の扉を出、日常の雑踏の中に一歩足を踏み出した瞬間。

自分の体が震えているのを感じた。足が震えている。

震える体の中で、映画で交わされる言葉が、生々しくこだまする。映画として、娯楽鑑賞品として、どれほど感動的で印象深い作品であっても、あくまでも空想が産出しているものの限界として、日常の中には滑り込まない。

しかしだ、この映画はで発せられた、声の一つ一つは命を持ち、生存したものとして、両耳のすぐそばで語り続けている。

そしてその瞬間、知った。

この映画は生きていることを、生き続けている人生を、表現した作品だったと。今そこに手を出して、触れて、声を聞き、表情を交わす作品だったのだと。

だからこそ、作為に感情を動かさない必要性があった。

久しぶりに人の創作から流れ出る美しさに感銘を受けた。人の創造の力強さに打ちのめされた。

人は、やはり想像しなければならない、人は、創造しなければならない。この作品の最も素晴らしいところは、創造性に対する価値を純粋にお知られたことだ。

人として、その心の片鱗に、美意識の創造力が宿るならば、躊躇せず前に進まなくてはならない。

映画の内容に直接的には接触しないかもしれないが、僕個人として、これほどまでに感動を与える力のある、人の創造力にもっと、真摯に向き合わなくてはと思わされた作品だった。









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