久しぶりの本屋。出会う知性。本屋の良さ。

久しぶりに、ほんとうに、久しぶりに、本屋に入りました。

近くの本屋の消滅。コロナウイルスでの自粛。それらが重なり僕は本屋をこの数ヶ月訪れなかった。

昨日、仕事で駅前のショッピングモールを訪れました。最近まで自粛していたせいでしょうか、一通りはまばら。これ幸いと、なるべく人と間隔を開け、仕事までの時間ブラブラ歩きます。

車の中で、接触を拒否してうずくまって居れば良いのに、これは僕の性。見知らぬ街があるならば、歩かねばならない。余計なところを、意味もなく物色せなばならない。この街も僕の物色の対象となったのです。

ただ、店内をうろうろ歩くことはなるべく避けて、店の外から遠巻きに眺めながら、興味がありそうな店を見つけて、さっさと入って、とっとと出る。作戦を取ります。

そこで見つけたのが、ある本屋。

本屋があるなあと、眺めながら、人が多いと接触するし嫌だなあ。でも、この数ヶ月本屋に入っていない。久しぶりに、ずらりと並ぶ単行本や、文庫本、そして、雑誌を見てみたい。ここでこそ勇気を出して、突入すべきだ!なんて、思ったのか思っていなかったのか。

とにかく、その時の僕は、久しぶりに目の前に合った本屋に、どうしても入りたくなり、その気持ちのまま、ドアを開いたのです。後で、手を洗わなきゃなと思いつつ。

本屋だから当たり前のことだけど、目の前に本が並ぶ。目の中に本の背表紙が、そこに書かれている題名が飛び込む。次々と、入れ替わり立ち替わり。

こうして、人の気持ち、思考と趣向を無視して、お構いなしに本を押し付ける。本屋の本屋たる性質、高尚な知性の押し売り、なんとも素晴らしい利点。

最近、Kindle Paperwhiteを買ってから、Amazonばかりで電子書籍を買っている。と言うかそこしか買えない。考えてみれば恐ろしい現実。

そこでは、あなたの読んだ経歴から、興味を持ちそうなことから、性癖から(?)などなどと、本を紹介してくれ、なるほど、なるほどと、関心はするけど、何か、狭い範囲、既成事実、通り一遍等、今ひとつ予想の範囲を超えていない、つまりはつまらない。

本屋にもよるけど、本屋というのはそれが無い。と言いたいところだけど、少ない。

本屋の中を、ところかまわず、ふらふらとふらついていると、日頃は会うことも、考えることも、人生と関わることもない本と出会う。その中のいくつか、確実に心に印象を残す本がある。読んだわけでもないのに、人生得した気になり、嬉しくなる。

棚の迷宮を右に曲がったら、そこに、人類の軌跡の一部を記していたり、見落とされやすいが、今、差し迫った害悪が訴えられていたり、胸ときめく恋のロマンスが高らかに謳われていたり。もちろん、荒唐無稽な武勇伝も愛す。これらと出会えたことを、感謝し胸を抱いて空を見上げ、思いを馳せる。

こんな時、やっぱり本屋は素晴らしい、そう実感するのです。

もし、僕に節操が無く、お金が存分にあれば、買い物かごに無造作に放り込んでいるでしょう。まあ、なけなしの自制心と収入がそれを亡き者にしているのですけど。

訪れたこの本屋。大きくはないが良い本屋でした。一般的に売れる本、売れている本も並んでいます。だけど、少し奥に入れば、内容の濃い社会や歴史、文化関係の本が並べられています。それも、うまく言えないのですが、選択が素晴らしかった。

本屋の中には、大きくても興味ひかれないところもある。反面、小さくとも一つ一つの本が輝いている。選択が深くて適切で、思想と知性で選んでいると感じる、そして、背表紙を見て歩くだけで豊かになる本屋があります。

この差は、なんでしょうか。単純に本の数が多いだけではない。もしかしたら、本を選択する上での思想があるのかもしれません。利益を得るだけでない、無駄な本をあえて並べる意思が本屋を面白くさせているのかもしれません。

↓人気ブログランキングに登録しています。記事がよかったらクリックをお願いいたします。


人気ブログランキングへ