引越しの最中に見つけた天才の創造。ある種の戯言。

引越しがなんとか終わり、新居に今いる。

終わったと言っても、僕の周りは段ボール箱の山。正式には終わってない。それどころかこれから始まる。

それでも、今日中に元の住居は出ないといけなかったので、最悪の事態は乗り切ったという誇らしい事実がある。

これから、土曜日、日曜日を全面的に使い、少しは豊かな土地を得るために奮闘している。体は悲鳴を上げ、まぶたは重く、頭は深い霧の中に彷徨っているが、やらないことには未来は訪れないのだ。(なんとも大袈裟なことだ)

引越しのお決まりと言えば、映画でもアニメでも、ドラマでもこんなシーンが必ずある。荷物を断捨離捨するために、押し入れから段ボール箱を取りいだし、中を開けて今まさに捨てようとしたその瞬間。

目の中に懐かしい風景が留まる。すっかり忘れていた思い出が、まざまざと蘇る。

お決まりの展開、捨てることなどすっかり忘れ、時間を忘れ、懐かしい手紙や本、それと写真を愛でてしまう。いつもはすっかりと思い出の記憶から消えているのに、自ら進んで開くことは決してないのに。時間が無く、無慈悲に捨てなければならないのに、思い出に囚われてしまう。

その時の僕もそうだった。

押入れの奥から、埃まみれの段ボールを取り出した。そうその中で見つけたのだ。僕が天才だと言う証を!

箱の中には何冊かの分厚いアルバムが収められていた。今の人は知らないかもしれないけれど、昔、写真は紙に現像するもので、それは、大体は分厚い表紙のアルバムに貼り付けられていた。

それが素敵なところは、台紙は粘着性のあるもので、その上からかぶせる透明のフィルムが相棒としてついてくる。その二人の協力で写真が固定される。すごいところは、透明のフィルムは簡単に剥がせ、写真の追加も排除もできる。

余計な説明はさておき、アルバムを開くと、かなり昔撮ったモノクロ写真が目に入った。確かカメラはNikonのFM2。レンズは忘れた。でも、35mmだったと思う。フィルムは戦場カメラマンを模して、コダックのトライエックスを使っていたはず。時々、手に入りやすい富士フィルムのやつも使っていた。僕が昔、カメラマンという妄想に取り憑かれた時に撮ったものだ。

この写真が、自分で言うのもなんだけど、とんでもなく味があって、どこの天才が撮ったのかと惚れ惚れするぐらいの写真だった。これを撮った人、もう一振り勇気と行動力と、他者からの罵倒に耐える精神とがあれば、世が世ならアラーキか大道か、はたまた、篠山かなんて思えるほど、写真表現の極みであった。

時間を忘れ、うっとりして堪能した後、再び段ボール箱の中に収め、引越し屋に手渡した。次の家に運ぶと伝えて。

世の中には、他人様には全くお笑いの種か、迷惑この上ない雑音としか、感じられないものであっても、当人にとっては、自分凄い!と褒めてやりたい、世にいう自画自賛というのがあります。

この僕は、その様なふしだらな手前勝手で、判断はしないと、強く心に決めいていたのですが、どうも、僕も人の子のようです。

昔、カメラマンに憧れて、それも戦場や事件、旅行ドキュメンタリー分野の、ワイルドなカメラマンに憧れていた僕は、自分で結局は現像と焼付することは無かったのに、モノクロの存在感の強さと特殊性に憧れ、モノクロフィルムをカメラに入れて、ひたすら街に出て、写真を撮っていました。

結構、金を使ったし、時間も使った。

カッコよく、ただ好きで仕方がなくて、無我夢中に撮っていただけの無駄な時間でしたが、それが、今の成功につながってたのだと、改めて思います。なんて、どこかの安っぽいビジネス書風な事があればよかったのですが、そんな調子の良いことは1億人に1人の話。

まったく、成功とは縁のない今ですが、こうして突然、変な情熱を持って、ただただ歩き撮った写真を見ると、その時の僕自身と、僕の未来に対する根拠のない希望を思い出します。

希望。ずっと、手に入れたくて、そろそろ貯まったのかなと思ったら、するりとこぼれ落ちて消える。あやふやなままの存在ですが、こうして昔の写真を見ると、この時は確かに希望という幻を、感じていたんだなあと感じます。

それが、写真の端々から湧き立っていて、いい写真だと、素直に自画自賛したのでした。つまらない素人写真でも、時間が経つと歴史が上塗りされて、なんとも言い難い天才もどきにまで引き上がるのは、面白い。

管理する事が人生にとって重要課題。それが、今回の話の締めでしょうか。

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