MacBook Proがとんでもないことになり、頭が真っ白、意欲減退。深く落ち込む日々の我。
とんでもないほど落ち込んでいます。
本当に久しぶりの落ち込みようです。自分でも人間性が低いと思いつつ、大切でかけがえのないものが傷ついてしまった現実に打ちひしがれています。。
一体何があったのか?
少し日が経ち、気持が落ち着き踏ん切りがついたので、語って参ります。
最近、 MacBook Proがあまりにも快適なことに目覚め、今まで決して持ち運ばなかった、仕事現場に持参するようになりました。
それはそれは快適でした。素早くデータを記録し、撮った写真を快適に現場で加工して整理し、その場で即、メールで送る。戻った後にもたもたと仕事をする必要がない。
これは理想の仕事術。まるで、絵に描いたよう。
そんな感じでこの数日、Macが仕事の場所での、よき友になってしまった。その、複雑で愛おしい現実に心躍らせていたのです。
その時、油断をしていました。
慌ただしい仕事の中、何気なく車の椅子の上にMacBook Proをポンとおいて、少々不安定だけど、誰かが故意に落とすことがなければ、どうにかなることはない。
安心し切って、その場を離れたのです。
戻ってきた時、空気が変わっていたのを、感じました。
同僚が不安な表情で僕のMacBook Proを触っているのが目に入ります。苦い予感が胸に広がり、そして、僕に向かってちゃんと動くか確かめてほしいと懇願する声が。
その後に続く言葉に、頭が真っ白となった。
「椅子の上から下に落としてしまった」と言ったのです。
そう、不用意に荷物を片付けていた時に、MacBook Proに触れてしまい真っ逆さまに落としてしまった、地面の上に美しい僕のMacBook Proを。
早る気持ち、そして、苦渋に満ち満ちた精神の錯乱を表情に出さないことを強く決意して、MacBook Proを隅々まで見渡しました。
大きな破損はありませんでした。カバーが歪んでいる様子もありません。
が、落ちたあたりの角を見ると、やはり傷が残っています。それほど大きくはないのですが、美しさが命のMacBook Pro。その価値は半減いや激減してしまいました。
確かに、こんな小さな傷で心を乱すだないて、哀れなApple信者の性でしかありません。でも、どうしようもないのです。
僕に、無邪気な精神の透明さ、もしくは、環境や他人に左右されない剛気な精神があれば、雄叫びをあげ、両手を何百回転振り回し、手当たり次第に周りのものを砕け散りさせながら、あまりにも悲しい現実に対して、理不尽な怒りをぶつけていたでしょう。
でも、それはできない。
これからのことがある。未来がある。付き合いがある。
静かさを装いながら。とりあえず問題ないことを伝えました。ただ、本体に傷がついてしまったことも伝え。修理したいことを伝えました。
彼は、恐縮して修理代を払うと言ってくれました。ただ、Macの修理は高い。全てはダメでしょう。彼がその高さに怖気付くのは目に見えています。だけど、傷ついたMacを僕は使いたくない。
多少のお金が掛かろうと、修理してカバーを交換するつもりです。
その時に彼の反応を確認して、よければ援助してもらう腹づもりです。
それにしても、地面の上に落ちたというのに、実質的にはMacBook Proは全く問題なく動いています。本体が歪んだりしてディスプレイの開け閉めが悪くなったりしていません。
ユニボディの頑丈さと作りの良さを改めて教えられました。
これって、不幸中の幸い?いや、そうじゃないでしょう。こんなことは願い下げ。不幸でしかありません。
これから、もっと注意してMacとともに仕事をしなくてはと、反省しております。
早く修理に出したいのですが、忙しくて行く暇がない。今月末にはと思っていますが、いつになることやら。