写真を撮ることが好きで、なんとか美しい写真を
残したいと日々願い、カメラを持ち出してはいるけど、
何か足りない。

愛して、憧れているが、何かが決定的に足りなくて、
洗練され、整えられ、突き刺さる“心残る”写真が
撮れないでいる。

もともと僕の中には、そんな洗練も、整理も、突き刺
さるほどの美しさも、きっと、ないのだろう。

ただ、それを強く、重く、皮膚感覚で、理解することの
できる、美への理解はある。だから、自分でも創り出
せると思ってしまっているだけだ。

だけど、“美しさ”を持ち合わせた人ならば、僕のよ
うな焦燥にかられた、行動など必要とせず、手に入れる
ことができるに違いない。世の中には、すべてが“美しさ”
に満たされた人がいるのだ。才能とか、天性に恵まれた
人が。

それを持ち合わせていない僕は、彼らが創り出したもの
を理解して、憧れもしているから想像し、せっせと何か
足りない創造を繰り返している。

どうしようもない衝動を繰り返している。

今日、園子温監督の「地獄でなぜ悪い」を観た。
泣けそうなぐらい、映画を愛している作品だ。

なにかしら彼にも焦燥感を感じる。彼の作品は、手だれた
映画監督が撮ったような、洗練さも、整理感も、美しさ
もない。

あるのは、星のように無限にあり、星のようにたおやかに
輝く映画たちへの、焦燥に満ちた愛だ。彼は、映画に恋い
焦がれて、だれよりも映画に対する思いが噴出している。

彼自身の中で、どれほど演出家としての欠けた部分があろ
うとも、それをものともしない、直情的ななりふり構わない
愛情で、映画を撮り続けている。

美的感性と、それを支える高貴な知性と、世の中を制覇す
るほどの客観性と、氷のような美的感覚が有れば、造作も
なく、作り出した映画を洗練の極みに打ち上げることも出
来る。スピルバーグのように、タランティーノのように。

園子温はこの映画そのもの。狂気の情熱で、洗煉を無視し、
映画を造る。彼自身の内面を表した映画がこの作品だ。

だから、今まで得た作品が幾重にも現れては消え、その中、
理不尽な素晴らしい演技を役者から引き出す。役者もそれに
乗せられて冥土へ旅立つ。

僕自身も、数々の映画のシーンが思い浮かび笑い涙した、
ラストのロバート・ベントン昨「プレイス・イン・ザ・ハート」
を彷彿とするシーンには、感極まった。

園子温監督で初めてしっくりしたいい作品だった。