凡庸雑記 「覚悟」





覚悟が必要

覚悟が必要なことが世の中にたくさんある。

昔はああだった、こうだったとは言いたくないのだけど、昔は何をするにも「覚悟」が必要で、面倒臭かった。

もちろんというか、創作したものを人に見てもらうなんて、無茶苦茶面倒だった。そんなことをしようだなんて、正気の沙汰ではなく、よっぽど、暇人か、奇人、変人、狂人。(ちょっと大袈裟で失礼になったらすいません。)





物書きは辛いよ

小説なんかも、noteやブログ、投稿サイトみたいな便利な表現場所はなかったから、書いたものをひたすら出版社や企業、自治体などが主催するコンテストに投稿するしかなかった。

それも、PCもワープロもなかったから(どんだけ古代なんだよ)せっせと、原稿用紙に決められた枚数書き綴り、(そう原稿用紙何枚なんてあったなあ)何度も推敲し書き直し、たっぷり時間をかけて、(かけざるを得ない)これだ!と納得した小説なりエッセイなりを投稿した。

ちゃっちゃと書ける短いエッセイだといいけど、(短いものが楽っていうのは嘘であるとわかっています。はい。)かなり原稿枚数が必要な小説なんかになると、それはそれは、膨大な時間を投入しなくてはならない。

つまりは、結果のわからないものに対して、希少な人生を確実に、削り取らないといけない。こんな、博打。いらちで小心者の僕は到底できやしなかった。





生まれたての子供と会うように

もちろん、写真も同じ。当たり前なこととして、フィルムカメラ。枚数は多くて36枚。枚数というかお金を気にしながら、シャッターを切っていく。

もちろんすぐ確認できない。淡い期待で胸をドキドキしつつ現像所に持っていき、現像を依頼。数日後どんな写真と出会えるのだろうかと、生まれたての子供に会うような気分で後日訪れ、写真を受け取る。

その場で写真をめくりながら、一気一憂。その中で一枚か二枚、とても気に入った写真があれば、出品するためには大判プリントへ。





作品はプリントの大きさ

もちろんのこと、作品として世に出そうとするぐらいの大判プリントは、そこそこ値がはる。その代わり、一度プリントが上がってきても、もっと、ここの黒を深めてくれとか、コントラストを上げて、赤を強めてなどなど、わがままを聞いて、現像所のプロが写真を追い込んでくれる。

何度も、納得いくまで現像所のスタッフと打ち合わせして、満足いくプリントに仕上げるために、時間は掛かるし、現像所に足繁く行かなくてはいけない。今なら、Macの前に座り、Lightroomで自由気ままにできるのだから、びっくりするぐらい楽になった。

ただ、作品の良し悪しは別の話だけど。

もちろん、僕自身はこんなプロっぽいことやったことはない。コンテストに出したことはないから。憧れてはいたが、覚悟と予算の問題で、大体はリバーサル現像でとどめていた。それなら、ライトボックスを使っていつでも自分の作品を楽しめることができたから。





気を使い丁寧に

さて、こうやって、ようやく納得いくプリントを仕上げ、それをコンテストに応募する。

ここで、また大変なのが、デジタルなんて影も形もなかったから、全ては紙で出さないといけない。それも、最低でもA4以上、理想はもっとでかい(でかいほどいいという伝説も)を傷がつかないように丁寧に梱包して、発送する。

写真雑誌の審査員をしていた風景写真ではとても有名な写真家が、小さいプリントの作品を散々酷評していた。写真に対する姿勢がなっていないと。大判のプリントでないと受け付けないコンテストも多かったと思う。





プロのための必死の覚悟

コンテストぐらいならまだいい。が、これがモノホンのプロになろうとするなら、必死の覚悟が必要となる。

コンテストやら、学校やらで腕を磨いて、ある程度の作品が取れるようになっり、より技術を磨き、作品の質を上げようとするなら、いや、それ以上に写真家としての業界の道を作るためには、どこかの写真家に弟子入りするか、報道ならば新聞、雑誌社に入り込んで、これまた徒弟制度の中に身を浸さなければならない。

縦社会というか、村社会というか、そんなそれはそれは厳しく恐ろしい世界が待っている。と、噂で見聞きする世にも恐ろしい世界を、我が身で体感したこともないのに戦々恐々恐れ慄いていた。





厳しい中で練磨される

小説家も同じようなものだ。

小説家になろうとする。コンテストに応募し、多数から評価を受け、名のある出版社から声がかかって、さあ、終わりってことにはなりはしない。

そこからが大変。厳しい編集者の元、徹底的に文章を叩き直され、答えのない正解を求めて、幾度も文章を反芻して、才能を見極めていく。

血反吐が出るほどの、(もちろん精神的に)文章の錬磨を重ねに重ね、運よく才能らしきものを神様から与えられた人間が、編集者が好ましいと感じる文章を獲得し、了解の下ようやく出版の運びとなる。

とんでもない覚悟で自分の才能と向き合う必要があった。(妄想も含まれているのでそうじゃない人もいるかもしれないけど)





臆面もなく出してしまう今

人一倍小心者で、世界一気の小さい天才と自負している僕としては、こんな、覚悟を持って環境と才能に対し、戦いを挑むなんてことは、それはもう、考えられないことだった。

僕は、心中にひっそりと仕舞い込んで、すっかり、とは言わないけども、とりあえずは静かに目立たず抑え込んでいた、創作への欲望を。

写真は続けていたし、多少の文章も書いていた、それなりに。だけど、それを人様に見せたり、間違ってもコンテストに出したりするようなこと行わなかった。

それがこうして、臆面もなく写真や文章を出してしまうだなんて、世の中、変わるもんだとしみじみ思ったりしている。





覚悟ではなく問いたい気持ち

もちろん、覚悟を持って、あらゆる障害を乗り越えて、才能を磨くことの重要性は、今も昔も変わらないし、環境に負けず苦難の中で結果を出している天才たちは、今なお多数いるはず。

だけれども、人間関係や、組織の問題なんかで、日の目を見るはずだった才能が、潰れてしまうのなら、立ち向かう覚悟なんか必要のない、創作の欲望と渇望を、素直に作品として表現できる場所があってもいいんじゃないかと、思ったりする。

でも、今はそんな覚悟や決意や何やら、重っ苦しいもんなんて頭から放り出して、スッカラカンにして、撮りたい心、書きたい心を、自然な気持ちで現して、目の前に広がる世界へ問えばいい。そのための場所は用意されているから。だと思う。

でも、しかし、こんなことを考えて、覚悟なんてもんに支配されているお粗末な年寄りはさっさと消えてしまうに限る。と、こんなとこやろなとも思ったりして。それではおしまい。





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