朝が起きられないなら深夜があるじゃないか「深夜写真家」への道





自慢じゃないが朝が起きられない

朝が遅い。自慢じゃないが起きられない。

すなわち、夜が遅いからだ。家全体が夜型のために、布団に入れるのが早くて24時となる。その上、寝付けなくて読書や動画でゴソゴソしていたら、あっという間に1時間が経つ。

こんな感じで、ようやく眠りにつく日々を過ごしているから、どうしたって朝は遅くなる。





写真と早起き

ちなみに、ご存知かと思うが、写真撮影が趣味だ。

写真を写すということは、絶対的に“光”が必要になる。基本的には太陽が出ている時に行う趣味だ。自ずと、撮影を愛しているならば、なるべくそれを楽しもうとするならば、陽の光が降り注いでいる時間を多く確保することが必須だ。

何を言いたいかというと、写真撮影を愛する者ならば、基本的に朝が早くなければならない。朝、陽が輝く瞬間を待ち遠しく身構えなければならない。





朝が弱いくとも撮りたい気持ち

それなのに僕は、朝がすこぶる弱い。しかし、写真は朝を大切にしなければならない。つまりは、僕と写真の相性はすこぶる悪い。写真を趣味として愛しているのにも関わらず、実生活の中では相反する間柄なのである。

写真という趣味を今すぐ捨てて、カメラをマップカメラかキタムラ、ヤフオクで売却し、そのお金で快眠枕を買った方が正しい生き方なのかも知れぬ。

いかん、こんな早まった、誤った、考えに行き着いてしまった。

写真を撮ることを捨てることは、あまりにも悲劇だ、僕にとって。道を歩けば自然と50mmf2.0の目で構図を切り取り、心臓の鼓動に合わせ、心でシャッターを切っている。(なんじゃこりゃ?)自分にとって、切っても切り離せないのが写真撮影である。

そこで、並び立たぬ双方を、いい塩梅で混合し、正しい未来へ導けないかと考えた。





深夜食堂ならぬ深夜写真家へ

そうすると良き考えが頭に浮かんだ。

かの有名な「深夜食堂」ならぬ「深夜写真」を、深夜写真家として名を馳せればいいのではと。昼間陽の光が満ち満ちている時には、引きこもり。

夕暮れどき、紅色に空が染まるやいなや、やおらカメラを持って外に出て、夏の日の街灯に吸い寄せられる夏の虫のごとく、人工の灯火へ歩みを進め、わずかなその光を糧に撮る。それこそ「深夜専門写真家」の本懐である。

都会の夜は眠らない。自ずと灯は終わらない。常に何かしらの輝きが、五式の色で天ではなく、地べたに瞬いている。看板の照明、眠らない職場の電灯、ざわめく店々。その光に照らされて、息する人々の生態を写し取る、それこそ一つの芸術であろう。

こうして、「深夜写真」という新たな道へ進む想いを心に刻みつけたのだった。そんなカッコ良いことはではなく、実のところ、自堕落な日常を変える勇気と決意が無いからゆえの逃げ口上なのやも知れない。

ちなみに、夜徘徊し撮り歩くのも、怖いし、腹減るし、眠いし、冬は寒いし、深夜写真を進んで撮ることはきっと、決してないだろう。と、ちゃぶ台返しをして、終わり。









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