凡庸雑記「推敲」





絶望的思い

昨日書いた文章を読み返してみて絶望に近い思いになった。

打ち間違いがあるは、変換は誤っているは、変なところで(、)を打っているは、挙げ句の果てには文章のつながりが全くなっていない。突如として、話が別の流れになり、迫撃砲に見舞われたように起承転結が崩壊している。

我が身の哀れな知能にほとほと呆れ返える。そりゃ、日本語を喋ることができるし、文章を書いてそれなりに日常生活は送れる。が、人に読んでもらう文章を書き、ささやかな表情を加えようとすると、途端に姿が崩れてしまう。

表現を形にする基本的骨格が、文章の中に全く無いことを痛感してしまう。





知性の必要性はあるか

どこで読んだかすっかり忘れてしまったが、小説家や文筆家は知能が高くなければならない、必然、なのある作家は押し並べて一流大学を出ている。と、書いていた。

そんなことあるんかいな?と、書きたい気持ちは人一倍あるが、絵に描いたような低学歴で低成績だった僕は、強い嫌悪を感じてしまった。でも、何気ない、「てにおは」の使い方一つで、流れるような文章を作り出す知的洗練、起承転結の骨格を冷静と情熱で組み立てる論理性は、手に届きそうで届かない。

あゝ、やっぱりアホな頭には叶わん夢なんやな。と、惚けるのであった。





後悔後に立たず、公開後に立たず

せめて、崩れようとする文章を、補強するためのわずかな忍耐があればよかった。とにかく、あわてんぼうでイラチ、壊滅的に振り返らない性質のせいで、書けたらポン!と投稿してしまう。

後悔後に立たず、ではなく公開後に立たずだ。

公開した後から、細かな部分の過ちを発見し、慌てて何度も修正することになる。もう少し、あと少し読み返せばこんな不品行は行う必要はなかっただろう。





「推敲」と天才と

小説家や編集者がよく言う「推敲」を身につけることが、今の僕には必要だと、痛感する。

「推敲」書いた文章を幾度も読み返し、書き直し加え、理想の形へ高めていく大切な行為に違いない。

ただ、それを嫌がる作家もいるのも事実、よく聴いているポッドキャストの作家は、もちろん多数の書籍を出版している有名作家、彼は書いたものを書き直さないと語っていた。書き直すことで、文章の勢いがなくなるとも。

確か太宰治は、即興に近い形でその場で執筆したという。(実は別の原稿でかなり推敲していたという話も)

楽譜にいっさい描き直しの跡がなかったモーツァルトのごとく、頭の中がそのまま美しい言葉の連なりになったことに憧れて、それこそ天才だと褒め称えてしまう。それの、まがいものになろうとしているのだろうか僕は。





「推敲」する天才

もちろん、「推敲」の素晴らしさを作品で表している作家もいる。

村上春樹さんがそうだ。彼は、書いたらしばらく置いて、冷静な気持ちに染まった時、読者として読み直す。言葉が詰まる部分、検証して正しくない部分を削り直し、再び放り出す。それを幾度か繰り返し、作品を完成させていく。

「推敲」しない天才もあるが、「推敲」することで品質の純度を極めていく天才もある。

短気でイラチでせっかちなこの身だから、一発取りを望むのだけど、中身は何度も振り替えなければ、体裁を保てないのだから、もしかしたら「推敲」を身に付けた暁には、朝日のような新鮮な輝きを持てるだろうかと、思うのだった。





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