凡庸雑記「手書き(アナログ)」忙殺されている日々真っ先に削除される行為

忙殺されて、流されて、消えて

あいも変わらず最近は忙しくて、忙殺されて、流されて。

体も心もくたくたで、何か愉快なことをしてみようという、余裕もへったくれもない。

こんな、忙しさに背中を覆われた時、まず、失われて消えていくのは、「手書き」だったりする。

手書きはやっぱり良いよね。なんて、文具や趣味系の雑誌を読み齧り、手書きの手帳を使いこなす、事細かくメモと綴る、そんな風習を持っている人は、中身も器もとっても素敵な知識人を憧れとして無条件に受け入れてしまう性質なので、なんとかかんとか手帳や、ちょいと高級なモレスキンあたりのノートを広げて、つらつらとさほど中身のないあれこれを書いている。

平時は、意識して手帳を広げ、ノートを取り出して、無理やり書くことを捻り出しているもだけど、忙しくなって余裕がなくなると、その効果はてきめんでパッタリとそれらを見ることがなくなってしまう。

相性が悪い

書くことは決して悪いことじゃないと感じているし、後々から読み直したりすると、人生の彩りがコッテリと滲み出てきて、なんとも言えず幸福感に満たされる。だけど、わかっちゃいるけどやめちゃうんだこれが。

考えるとやっぱりアナログな手書きとは、とってもと言ってほど相性が悪いと思う。

脳トレにもなり、大切な記憶が深く刻まれて忘れない。と、偉い先生も賞賛している手書きが、それはそれは嫌だった。今は手帳やらノートやらに書き込んでは悦に入っているのにだ。

憎しみに近い感情を

昔々の話、憎しみに近い感情を手書きに抱いていた。

昔、当たり前のことだけど、パソコンもワープロも無かった。必然、愛しい人への手紙も、ややこしくて引き返せない魑魅魍魎の書類たちも、ペンをにぎりしめ手書きで書かねばならない。

何せ、この男。ひどい悪筆。それに誤字脱字の宝庫。挙げ句の果てのそのまた果てに、漢字が全くすっかり覚えられない。何度も書いて書き覚えこれで万全だと思う先から忘れていく。これはなんか一つの病いなのではと、呆れ返る我が人生。

会社の見積やら申請書類やら、それはもう肩を怒らせ、神経をすり減らしながら、ペンを彷徨い戸惑い迷走させる悪戦苦闘の日々。ただただ、終わりの日を願い苦しんでいた。

解放が今成った

それが、時間が流れ今や手書きで何かを訴えることなど、蜃気楼のように不確かで不要なものとなった。(日本では慣習として根強くこびりついているが)

あれほど苦労した、仕事の連絡も書類もiPhone(iPad)やMacがあれば事が足りる。日々の日記や手帳もそう。そして、愛の言葉もiPhoneから。

過去願い続けた手書きからの解放が今成ったのだ。

意識して使う娯楽のようなこと

手書きで何かを綴ることは趣味や娯楽の一種に昇華されたのかもしれない。

少し効果な筆記具で、なめらかなノートや手帳にこだわり、時間をかけて思いをゆっくり豊かに綴っていく。なんだか、書くことへの逼迫した責任や要求が無い。まさに創作活動。

手書きの良さの最たるもの

世の中、意識して使わなければ、よっぽどのことがない限り、ペンを持って手で書き殴ることなど不要になった。ただ、熱心な信奉者はこう語る。手書きをした方が忘れない、記憶にしっかりと残り、大切なことあれこれを、瞬時に引っ張り出すことができる。

だけど、僕個人の話限定としてのことだけど、どうも手で書こうが、華やかに色を変えようが、しっかり馬鹿丁寧に書こうが、いつ何をどこに書いたのかすっかりと忘れてしまう。

Macのメモにキーボードで打ち込んだ時と、手帳に高級万年筆(ちなみにペリカンなんて使っていたりする)悦に入って書いた時と、同じように忘れてあまり変わらない。

もっぱら、忘れてはいけないことは、仕事や家族の誕生日などの。iPhoneのメモ系アプリにとにかく放り込んで、どうだったかな?と頭に浮かんだら、検索をして引っ張り出している体たらくである。

そんなんだから、あまりにも忙しくて、なるだけ頭と体を使うことを人生から排除しようと脳が避難活動を始めると、真っ先にアナログ手帳。つまり、手書きが排除されてしまうのだ。

すっかり捨てれば良いものを

アナログな手書き、それに対してさほど思い入れのある心地よい記憶などないのだから、すっぱり捨てて人生から抹消すれば良いのにと、時々自分を責め立てるのだけど、なんだか、どうしても捨て去るのは口惜しくて、いまだにほぼ日手帳を買っては、手書きを続け、途中やっぱり投げ捨てて、を繰り返している、我が人生なのだ。

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