凡庸”写真”雑記「京都」

京都の写真家

最近よく観ている写真系のYouTubeに「キョウトボーイズ」がある。

このYouTubeをやっている一人が、写真展示会のCP +でNikonのプレゼンを行っていた。それで興味を持って観始めたら、結構ハマってしまった。

とてもゆるく京都の街を散策しながら、路地や寺院を撮影しているのがとても心地いい。それと、別段、写真やカメラのうんちくを語ることはなく、肩に力の入らない気楽な撮影スタイルがお勉強くさくなくて気持ち良い。(ただ、ヘラヘラ話しているけど、実は深〜い話をしている時もある)

純粋に趣味として写真を感じるのに、もってこいのYouTubeである。

被写体としての京都

ちなみにというか、個人的に被写体として、京都は大好物だ。日本の中で一番といっていい。

何か、言いようもない魅惑が京都にはある。(実に凡庸な感想だけど)

歴史的な神社仏閣がそこここにある世界的に名の知れた観光地。これは当たり前。

だが、京都に気持ちが引かれるのは、それだけじゃなく、何も変哲も無い普通の路地や街並みから、時代の息吹きみたいなものが、体にまとわりついて、ビリビリするような言い難い興奮を体感する。(そう、ビリビリするんだよね京都って)

その刺激に共鳴し、写真を写すことになる。

京都を撮りたい愛したい

こんなのだから時折、無性に京都を撮りに行きたくなる病にかかる。昔撮影したあの場所を、別のレンズで、カメラで、露出で、シャッターで、時間帯で撮ればどんなのが撮れるのだろうかと、胸が高まり、夢想してしまう。

一度、撮影だけで京都を訪れ、(だいたい最近は仕事がらみが多数)思いの丈を存分に京都にぶつけてみたい、そんな衝動に突かれてしまう。

昔、大阪に住んでいた時には、休みのついでに京阪電車に飛び乗って、京都へ直行できたかも知れないが、遠く離れた千葉の片隅に住んでいる身としては、かなりの時間と金と決意が必要になる。

しかし、そんな制約を乗り越えて、京都を愛しているのだとシャッター音で訴えたい。吐き出す写真で知らしめたい。そして、願わくば相思相愛になり、鴨川の川べりでお手てを繋いで、語り合いたい。そんな、アホな妄想に囚われている。

まあ、僕のヘたな写真の技量なら、「ぶぶ漬けでもどうでっしゃろう?」と、程よく追い出され、袖にされるのが目に見えているのだけど。

遠い京都それでも京都

真逆なことやけど、こんなに京都のことを好いた惚れたと書いてはいるが、やっぱり、大阪で住んでいた人間としては、京都は抗い難い魅惑を持ってはいるんやけれど、そこで、日常を送るのは何とも”恐ろしい”。

ちょっと興味本気で手を出したら、きつい決まりごとのせいで、アツアツの火箸で両手の甲をおもいっきり叩かれそうな気がしてしてしまう。

すごい、魅力的な街には違いないし、創作の刺激をふんだんに与えてはくれるけど、花火は遠くで見るのが一番と言うように、京都というのは行きたい思いを抱えながら、人生のうちほんのちょっぴり訪れるのが、いい街かも知れない。

それでも、行きたい気持ちは拭えない。今度、大阪に仕事で行くから、それも千里やし、ちょっと京都で泊まって、急行で現場に行こうか?なんて、思っている自分があほおもろくて情けない。

ちなみに、この写真はこの間行った高松。暇に任せて商店街をぶらぶら歩き撮影。

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