ほんとにつらないことだけど、今年も手帳で悩みが尽きぬ
つまらない悩み
とてもつまらないことで悩んでいる。人は悩むために生きているのかと思うぐらいに。実につまらないことで悩み希少な時間を浪費している。
その悩んでいることとは、来年の手帳を何にするか?だ。
ほぼ日手帳にするのか、ほぼ日1週間手帳にするのか、能率手帳にするのか、別の何かにするのか。今年こそ手帳なんて買わないぞ、iPhoneとiPad、おまけにMacがあるのに、必要ないじゃないか。
初めと終わり中真っ白
それに、買って1〜2週間ぐらいは熱心に事細かく書き記すのに、いつの間にやら面倒になり、真っ白のままにしている。それでいて、年末、そろそろ来年の手帳をと想い浮かべた時に、俄然、手帳意欲が高まり、せっせと日々を書き記している。
つまりは、手帳の初めと終わりだけしか書いていない。
もう少し、決断力と自制心があれば、間違いなく手帳なんて人生から一掃できるはずなのに、どうしてもその一歩が、その一打が、人生に打ち込めない。
手で書く記録は不便で美しい
いったいなぜだろうか。手で書くことへの憧れか、無数の文字がのたまう手帳への満足感か。事実、昔のほぼ日手帳を引っ張り出し、書いた過去を眺めると、紛れもない一人の人生が垣間見える。
それを、美しいと思う。
記録するのも、確認するのも、現実的に便利なのは最新ガジェトの方だ。字が絶望的に汚く、漢字もろくに書けない人間が記録するにもってこいのシステム。また、いつどこで書いたかすぐ忘れてしまい、途方に暮れていることが日々の決まり事である人間には、キーワードを打ち込むと一瞬で現れてくれる検索機能は命の恩人である。
でも、なんだろうか。なんだか味気なくて仕方がないのだ。
希望の果てに無駄を行う
できれば、可能であれば、人体の性能が少しばかりまともならば、手帳一冊で人生の全てをまかないたい。そう、夢想してしまう。
そんなことで、来年も数千円。ドブに捨てることを承知で、一冊、まともに使ってもらえないだろう、哀れな手帳を手にいれるのだ。