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  「アデル」美と創作への不信

美しさを求める芸術活動を素直に行える人と、
愛しながらも、そこに居場所を望みながらも、
動けない人がいる。

この間「アデル、ブルーは熱い色」を観た。
強烈なセックスシーンが話題になっているけど、
この作品には、美を求めながらも、生きてきた影響が
そうさせない、その現実の重い悲しさを描いた作品だ
った。

どれだけ才能を評価されようが、多くの人に出会おうが、
自分の中の美意識に正直に向かえない、信じることが出
来ない不器用さが描かれていた。

よくある、成功物語では、凡庸な人生から見いだされ、
日常の人々や自分自身を裏切り、驚かせ、成長してい
のだけど、この作品は結局、自分の中の凡庸さに腰を
落とし、美への歩みを止めて、最愛の人と袂を分かつ。

でも、僕はこの凡庸な人生に腰を下ろし、もどかしさ
を感じながらも、信じられない創造の行方よりも、
不満に満ちた確実さを取る主人公の人生に共感してし
まう。

美を求めながら、その存在を望みながら、また、自ら
の魂に宿ることを希望しながら、真逆に、美を軽視し、
価値を否定する感情が人にはある。

主人公のアデルは、労働者階級の育ちだ。父や母は
日々、労働しその日その日を生きている。心を彷徨わ
せ、形の無いものへあこがれを持たない。食物が、
住まいが、現実である。

そんな環境に育ち、そんな環境を愛して受け入れてい
るなら、どれほど才能というものが宿っていたとしても、
本心では美への渇望を持っていようが、最後には、衣食
住に心を戻す。

創作や、芸術活動などの見えない、触れない、ましては
空腹が満たされない存在を真実事が出来ない。

僕自身も田舎の農家の出であり、日々土を耕しながら生
きている家族を愛していた。彼らの、言葉にならない、
体から発せられる、“生きる”という事実が、どうしても
くびきとなり、空虚な美への放浪を躊躇させる。

印象深いシーンがある。

もう一人の主人公エマの友人達が集まり、パーティーを
開く。その時、アデルは母親譲りのパスタを大量に作り、
ワインを用意し、ろくに席にも着かず、全員に食事が行
き渡るように気を遣う。

皆は知識と美意識の限りを尽くし、美と知の会話を堪能
しているのに。彼女のみが現実の中で彷徨っている。

その中、エマは再三アデルに、文書を書くように勧めて
いる。だけど、それをまるで別世界の言葉のようにアデル
は断る。

結局、この差が決定的なしこりとなり、アデルとエマは
愛し合いながら分かれるのだけど、アデルのどうしよう
もない人生なのだろう。

この映画観ながら、愛しながらを信じられない美と創作を、
どうしたら信じ愛することが出来るのだろうか?そう
強く思わされた。

それにしても、感性が芳醇で、現実を傍観できる彼女の作
り出す言葉の調べを味わいたかった。もし、続編が出来る
なら、そんな彼女が美と創作を愛し受け入れる姿が見てみ
たい。そんなことはないだろうけど。

 k-tokyo-nipponnbashi4511-8

 

 

 




 

 




 

 

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