夏目漱石の「三四郎」を読んでいる。

昔、かなり昔読んだ記憶があり、その時には感動など ほど遠く、
とにかく読んだという記憶しか残さなかった。

こうして、改めて読んでいると、多くのことに気づかされる。
切っ掛けはたわいも無く、村上春樹が好きな作家として、
彼の期間限定のサイトで紹介していたから。村上春樹と夏目
漱石 どうしても、似つかわしくなく、首を傾げるだけであった。

改めて読んでいると、彼らが実に似通っていることを感じ る。

シンパシーというのであろうか。根本の部分で共通する 文章の
冴えを実感する。 夏目漱石は徹して回りを観察する人だ。痛々
しいほど、身の回り の人物や、世相を感じ取り、その中の矛盾
や苦しみを体全体で感 じた人である。

だからこそ、英国留学の時に、欧米文化と、日本 文化の間で、
その亀裂の中に落下し、精神を病んだ。 彼の文章が愉快だろうが
、悲哀だろうが、新鮮であろうが、常に それが顔を出す。

村上春樹もそんな文章を書く。書かざるを得なくなる。彼も、
言いようのない、世の中の現実の殻と、その中で消化できない
生を肌の一つ一つで感じてしまう。

客観性の極み。歪曲せず、自分の中で編成せず、正直にありの
まま 受け止める人だ。 それほどまで、世の中を感じてしまう
知性と、観察眼と、真心を 持っているとは、どれほど苦しく、
恐ろしいことか。僕は、到底 願わない。

「三四郎」で描かれる人々を、彼が現実の中で、鋭敏な神経の
果て、 現実として受け止め、それを、端的なこれ以上無い文章
で描ききる。 見事なまでに。

これ以上言葉が多いと、悲壮になり、これ以上少ないと、滑稽
になる。 その、ギリギリの一線を、こと線のごとく鋭敏感覚で
描く。

なんとも、 痛々しい。 さりとて、登場人物が陰鬱で、希望の
光が見えない暗闇に落ち込んで いるのか。と言えば、全くの真
逆で、大昔の話なのに、それは、 新しい歴史特有の、輝きと希
望と、辛辣さに満ちている。

停滞し、 行き先見えない現代に比べ、まぶしいほどに。

物語の中、ことさら新しい時代の申し子であることを語り、未
来を おのれ自身で開いていく、余裕と、興奮と、戸惑いがある。

読み進める たびに、この、大昔の未来にあこがれを持つ。 過去
の日本の物語の一篇ではなく、どこか、違う次元の世界だと感じ
てしまう。

そう言えば、村上春樹の物語も、同じ感覚に囚われる。

彼の物語は、本当に、絵空事の空虚な異次元の物語だが、ほぼ、
現実を 写実的に描いている夏目漱石も、同じ部分にいる。

「三四郎」はまだ話し半分。まだまだ、この昔の未来の出来事に
興奮、 歓喜させられると思うと、思わず笑みをこぼすのだ。

それにしても、翻弄する美禰子。恐ろしくも有り、魅惑的な女氏。
こん な女性が目の前に居たならば、火傷ではすまないが、それで
も、手を 伸ばさざるを得ないだろう。