桜の花が見事に散って、やっぱり後遺症が残っています。
写真を撮るときの信条として、わかりやすい美しいものは撮らない
と決めています。美しいものはもちろん撮るし、否定はしませんが、
その為にどこかに行くことはせず、何気ない街角の風景から、
心が引かれる美しいものを見つけ出して、可能な限り美しいもの
を撮っています。そう心がけています。
だから、別段名所でもないいつも歩く散歩道をぶらぶらと歩きつつ、
日の光の陰影で味わい深く浮き上がる路地とか、雑木林の中の新緑の
青葉を見つけてはせっせとカメラを向けているのです。
僕の写真のモデルとしてはそれで十分だし、それ以上求めはしない。
自分の範囲の中で、つかみ取れる美意識で十分なのです。
が、桜の季節になるとその信条が儚く脆く砕け散ることを知るのです。
空一面に広がる桜の花びらを愛でながら、薄桃色に光を反射して、
華麗な装いをいつもの日常に輝かせている、圧倒的で強烈な美的存在感に
心を奪われています。
そして、一瞬の瞬きの時が過ぎると、まぶたの残像のみを残して散り消
えてしまうその、儚さと、口惜しさに呆然と立ちすくむのです。
どうのこうのしたところで、僕が持つ美的信条など、この絶対的な輝き
の前では取るに足らないものだと鮮烈に思い知らされ、生半可な風景な
ど全く反応しないほど、僕の美意識はズタズタに麻痺してしまうのです。
幾度も頭の中を、桜の輝く風景が湧き上がる、そんな、白昼夢に悩まされ
ることになります。
ることになります。
今、ちょうどそんな後遺症で、少しばかり写真を写す意欲が失われて
います。やはり、写真は被写体が重要なのです。美しいものを、力強く
すべてに満ちたものを、正直に撮るべきなのです。
近寄りやすい存在の中で、美を見つけ出すのは、それはそれで格好いい
話ですが、薄ぼんやりとした僕程度の創造力では、いかんともしがたい。
桜の花びらの下では、それをつくづく思い知らされて、嫌になるのです。
やっぱり、美しいものを素直に撮った方が、美しさには直接的に届く。
さほど美しくない日常の造形に、人的な表現力で美しさを絞り出すほどの
才能は全く有りはしない、そんな気になるのです。
まあ、そのうちケロッとして、また街角を、カメラをもって
ぶらつくことになるのですが、まだ、数日間は感傷というには、生半可で
つかみ所の無い挫折感が残りそうです。