福島に行ってきた。そこで、最近ではめっきり少なくなった、街の映画館に
入った。燦々たるくたびれ具合がとても愛さざるをえない。
地元の客がひっきりなしに入ってきて、とても、嬉しかった。
すぐ近くにイオン系列の映画館があるというのに、こうして地元の人々に愛されて、存続しているのは驚きだ。
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驚いたといえば、レイトショーがかなり早く、18時以降の作品は1100円で観ることができる。おまけに、スタンプカードを渡されて、3回観ると一本無料になるという。こんな、映画館は未だかつてない。最近、シネコンに押されて、地元の映画館が消えているが、これぐらい料金サービスをしてくれたなら、まだまだ、生きていけると思うのだが。
そこで、二度目の「シン・ゴジラ」を友人と観た。
もちろん友人は初めてで、出張の夜、浮いた時間を映画に費やすのも悪くないだろうと誘ったのだ。
二回目のそれは、映画への想いが、ゴジラのごとく急速に冷却された故、冷静に客観的に見ることができた。細々とした理解が払拭され、日本映画としての、どうしようもない脆弱な環境からくる、歯痒さを所々発見してしまったけれど、後半からの畳み掛けるような進展に、映画としての素晴らし他と、興奮のありかを、しっかりと再認識した。
これは、映画という表現方法が、場所と人を選ぶという、生きた環境に根深い依存性を持つ宿命故、日本でしか評価されない映画には違いないが、これを存分に楽しめる日本という環境に生まれ育ったことを、素直に喜び興奮したほうがいいと、諦めた。
友人はさほど興奮の色合いは薄かった。人それぞれだから致し方ない。かえってこの映画が万民向けでないと考えている僕としては、正当な表現であり、意外に人を選ぶ作品ではないかと思っている。
これだけ、好意的に、それも、表現者として自ら創作している人や、卓越した審美感のある人が、こぞって称賛しているのが、不思議だ。さほど多くはない、必要としている観客が、無類の賛美を持って、誉めたたえる趣向の表現をしている作品の部類ではないかと思っている。
素晴らしい作品だけど、アニメのように、特殊な空間のみで強烈に愛玩されるフェチな表現をしている気がする。よくもわるくも庵野氏の作品だ。
どれだけ素晴らしかろうが、深夜帯で放映されているアニメを、両手を挙げて称賛することは非常に少ない。ましてや、権威に足を突っ込んだ、成人がそれを表立って歓喜するのはいまだかつてなかった。か、非常に少ない。ただ、宮崎アニメは別としてだが。
もしかしたら、本当は彼らも、庵野氏やその他アニメを表現媒体として選んだ創作者と、それらが作り出したアニメを、心のどこかでは称賛し、認めているのかもしれない。ただ、世間体や、他者の視線が、彼らの鋭敏な感覚が受け止めて、制御していたのかもしれない。紳士的対応として。
それが、実写としての映画としての、表現ならば、演出としてならば、気にせず、臆せず称賛の拍手を惜しみなく送ることができるのだから。願ったり叶ったりとなった。
全ては、妄想だから、そんなことはきっと微塵も彼らは認識していないのだろうけど。
とにかく、福島の静かな街で、久しぶりに映画館らしい映画館に入り、作品を楽しめたのはなんたる幸福だろう。それを、今は噛み締めている。
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