銀座のSONY SHOPにあるフォトギャラリーに行く。そこに展示していた写真がとても良い。

何気ない風景を切り取っていた。だが、それが心に残る。

若い女性の作品であるそれらは美しかった。

淡い色彩で丹念に対象を捉え、低いコントラストで主張を抑え、見たときのささやかな感動を表している。

ぼんやりと散策している時に、通り過ぎてしまうような風景こそが、かけがえのない美しさを持つ。

そう、教えられる。

受付に若くて美しい女性が座っていた。かの、写真を写した本人かもしれない。だが、気の小ささ故、大きな好奇心があったとしても、答えを聞くことはできなかった。

あの、儚い日の名残りを閉じ込めたような輝きをどのようにして閉じ込めたのか聞きたかった。

どんなカメラで、どんなレンズを使い、コントラストをどこまで下げたのか。

なによりも、その時の感動を。

どうしてここまであの写真たちに気持ちを持っていかれたのか。考えを遊ばせた。

僕の撮ろうとしているものと同じだから。自分の作品からまっすぐに線を引くと彼女の写真とつながるから。こうまでも心魅かれる。そう思った。

写真を愛し、撮ることに無心になる自分がある。だが、そのための時間と場所を選べない。わずかな機会を拾い集めながら、撮るしかない。

おのずと、自分の変哲も無い周辺を眺め、その中から出会うしかない。

最近は、あまりにも凡庸な風景にへきへきし、写真を撮る意味を摩耗させている。

だが、彼女の写真は、僕の観察眼と審美眼の愚かさ弱さを気づかせた。

身の丈の中に、幾重にも作品としての意識が塗りこまれているのだと。そして、自分の中にこそ、美しさがあるということを。

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