肌に合ない宮崎監督の「風立ぬ」を観て。

世の中には肌が合わないものがあります。なんだか今ひとつ乗れないといか、好きになれないもの。それは世の中に認められていて、多くの人から賞賛されているものだとしても。

けっして、それ自体が劣るとか、欠点があるとかいうのではありません。ただ、僕自身が受け入れられないものなのです。

例を出せば、ビル・ゲイツ氏だったり彼が作り上げたWindowsだったり、それに、Android端末一般。まあ、僕自身がAppleびいきのせいかもしれません。



その中に名実ともにアニメ界の巨匠宮崎駿監督がいます。

これは全く失礼な話ですが、僕はどうしても彼の作品に乗ることができません。

カリオストロの城やラピュタまでは、彼の巧みな映像表現、強固に論理立てた物語、細部まで染み渡った演出の冴えに魅了されましたが、それ以降の彼の作品は馴染めませんでした。

彼の作品から透けて見えてくる意思や思想が気になって仕方がないのです。彼の作品は国内どころか海外でも高い評価を受けている。彼が創造するアニメ映画の質は、誰もが認めるほどの高みに位置するものです。

あくまでも僕個人の趣向がそうさせている。



そんな僕が昨日「風立ちぬ」を観ました。

家族で数本DVDを借りることになり、その中の一本にそれがありました。この作品を劇場で観た時には、彼の思想の香りが気になったのと、最後の抽象的な終わり方が気に入らず、僕にとってはさほど良い作品だとは思えなかった。

が、こうして見返して、悔しいながらよくもこれほどの作品が創られたものだと、ただ、感心しています。

宮崎駿監督の演出家としての、実力の強さと深さを見せつけられました。

全てが命を吹き込まれたような絵の動きで、些細な感情を語り尽くす。細部まで磨かれ描かれた映像の美しさで、物語を明確に語る。彼が蓄積した映像芸術の技を見せつけられました。

映像の色彩の多様さ、魅了する動き。感嘆するところは多々ありました。



ただ、それ以上に僕を引きつけたのは、戦前の激しく困難な大河映画として克明に描いているにもかかわらず、時代の流れにそれとは交わらない主人公の心。

映画の中で常に夢と現実が往き来し、交わり、影響を与え合う。堀越二郎は常に自身の夢と愛に生きる人間と描き切る。

終盤、ゼロ戦の元になる飛行機が完成し、妻菜穂子は身を引き高原の病院に去る。ここで、唐突に現実は去り、夢の世界で抽象的に彼が愛した結果が示される。映画館で観た時にはあまりにも唐突に幕を降ろされるので、片すかしをくらった気持で到底消化出来ませんでした。

こうして、時を経て改めて観ると、夢に生きた男の最後のシーンとして相応しい、そう思わざるをえません。

それにしても、宮崎監督が今まで創作してきたアニメ。少なからず観るであろう子供たち。それを捨てて、自分が撮りたいものを正直に形にしたアニメでした。

この映画も肌に合わないのは事実です。しかし、これだけ男女の歴史を描き切る人物はアニメのみなず実写でもいない。その現実には頭を垂れるしかありません。



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