凡庸映画雑記「乖離」ターを思い出しながら現実と希望の乖離を考える

この間「TAR ター」を観たことを書いたのだけど、久しぶりに、個人的に、琴線に触れて、頭の中から離れない。

特に、最後の主人公の姿が、頭の中に何度も浮かび、これはどう捉えたらいいのだろうかと、咀嚼し続けている。

単純で純粋な音楽への回帰として、本当の音楽家になったと、拍手を送るべきだろうし、そう、感想を述べている人もいた。だけど、どうも手放しで未来を喜べない、暗さがある。

なぜか、彼女の姿を思い浮かべると、何かしら既視感を覚える。一体、架空の話だけど、あまりある才能に溢れ、世界的に名だたる名指揮者として描かれる彼女と、日本の片隅にひっそりと無知のまま生きる男の人生と、どうして記憶が触れ合うのだろうか。

少し昔、抱えた借金を返すために、警備のアルバイトをしていた。平日は本業に勤しみ。(とんでもない安い賃金だけど、捨てられない)土日祭日入れるときには警備で棒を振っていた。

その警備会社は時間的に自由がきいて、1ヶ月前に希望の日を連絡すると、何かしら現場を入れてくれて、臨時収入としては安定して助かった。

そこで働いている人は、実に個性的で千差万別。普通に会社勤めをしてこなかっただろうなと思える人もいれば、定年のアルバイトで気楽にやっている人もいる。その中、テレビドラマか映画のような訳ありの人もいて、一緒に何度か仕事をした。

昔、個人で社長をしていたり、超が付く大企業で世界を飛び回っていたり、普通ならば豪邸に住んで悠々自適。もしくは、高級老人ホームで貸しずかれて、わがまま放題でボケてゆく。

それが、どうして日々9,000円で、そこそこ過酷な警備なんぞやっているのだろうかと、世間話をしていると、数千万のお金を外国の若い愛人に持ち逃げされたとか、これまた外国の若い妻が母国に帰ってしまい、二重生活の上に浪費家で蓄財が霧散してしまったとか、出てくる出てくる。

で、その人たちがとても厄介だったのが、そんな感じで過去かなり結果を出したことに自信を持ち、もちろん、能力としても人よりはちょっと上だったのだろう、とにかく、警備のうんちくにうるさかった。し、仕事に厳しかった。

すごく不適切な言い方なのはわかっているし、申し訳ないとも感じているが、一日数千円の仕事にそこまで、精魂込めて行う必要あるのだろうか?そう、思ってしまった。

もちろん、不真面目に投げやりにやったらいいという事ではないし、第三者から見たら僕は拍手喝采を受けるほどの、まともな業務態度だったはずである。

でも、彼らはその域を突破して、彼らが今まで培ってきた、過去の数千、数億のビジネスをやっているような気持ちで、細かく、丁寧に、厳しく行なっていた。

性なのだろう。彼らが輝いていた残光が、どうしようもなく背中を押して、我知らず今を高みへ登らせようとしている。何かしらの、悲みと、焦りと、誇りと、人生をまとわせて、自分はここまで出来る人間だと証明させるために。

その、現実と希望の乖離が、とても暗く陰鬱な空気を漂わせて、なんとも切なくなった。そう、その映画「TAR ター」のラストに漂う空気はそれそのものだった。だから、胸に灯火は灯らず映画館を後にしたのだ。

この監督、これを意図して描いたのだうか、そうなら、冷徹な人間観察の術と、残酷な嘲笑を持った天才だと、妄想する。これが、正しいとは全く思わないけれど、こう考えるとラストの陰鬱なもやみたいなものの意味がわかった気がしてしっくりくる。

↓人気ブログランキングに登録しています。記事がよかったらクリックをお願いいたします。


人気ブログランキングへ