凡庸雑記「放棄」林忠彦賞と木村伊兵衛賞を受賞した新田樹氏の話

創作したものの価値は、評価の度合いは、すなわちお金であると、感じてしまう。良いのか悪いのか、世の中の純粋な創作に対する表面的な趣向ならば、即答でそんなもんじゃぁないと言うべきだ。だけど。

自然な心の発露を基準にするならば、僕みたいな節操も無い人間は、どうしても、こうしても、財布の厚みを気にしてしまう。

こんなことを書いたなら身も蓋もないが、全く稼げない創造者よりも、ふんだんに稼いでいるそちらの方が、素直に認めてしまう。

基本的にプロと言うならば、総作品が世に認められるほどの品質ならば、それに見合う”対価”を得ることが真理なのだ。と、その考えか、思いか、そんなものを心の中でしっかりと確保している。

それが、現実の一片しかないとこをこの間考えさせられた。

いつも写真に関して学ぶことが多く感心しながら観ている「2B Channel」で「56歳の新人写真家・新田樹」として新田樹氏のインタビューを取り上げていた。

56歳で林忠彦賞と木村伊兵衛賞ダブル受賞は画期的なこと。らしい。あんまりよくわかってないのでこんなもん。

新田氏はとても地味というか、朴訥がそのまま服を着ているような、御仁。一つひとつ詰まりながらも、よくよく考えて返答していた。

彼の過去と、受賞した写真それぞれ紹介されていたが、過去の写真は、彼の風貌につかわしくなく、強固で濃厚な現実を、強引に切り取った写真で、すっかり圧倒された。若い時の写真だから、今よりもずっと体躯も強固で、意思も創作者としての欲望に満ち満ちていたのだろう。

そんな、素直な写真たちだった。これはすごい写真を撮る人だと、感心する。こんな写真を撮れる人が、この年まで評価されていなかったとは、素直に感嘆した。

驚いたのが、最近の写真集「Sakhalin」を紹介されていた時、若い時の作品とは全く趣向が違う。いやなんだろう、もっと、存在自体が変わってしまった写真だった。

力強い濃厚さから、淡白で力みのない自然体の視線になり、そこで生きている人を、俯瞰しつつも、静観したやさしさで捉えていた。ここまで自然で、だけど、惹きつけてやまない生の存在感にどうして辿り着いたのか。

そのことに答えていた。

自分の中で、写真で儲けることを諦め、捨てた。と、言う。

他人の視線を機にすることがなくなり、自分の視線と感情を主体にした。自分自身でいいのかそうじゃないか、それに素直に従って撮るようになった。その自然さが、自由さが対象に良い影響を与えた。そんなことを、(うる覚えなので正確ではない)言っていた。

人に頼まれて、写真の営業も受けたが、人の希望に沿うのがどうしてもダメで、幾度も失敗した結果、すっかり、写真創作でお金を得ることを捨てた。

人それぞれだから、明確な利益の上限で、技術と意欲を高める人もいるだろうし、それとはどうも相性が悪い人もいる。

でも、やっぱり人として何か苦労して、(しなかったとしても)作ったのならば、お金わ欲しい〜なあ。カッコ悪い答えだけど。それを、スッパリ捨てるなんて、身を引き裂かれるほどの苦渋のはず。

自分の創作のために、自分の生活を捨てるとまではいかなくても、それで食べていくという創作者としてのプライドを捨てて、正面から素直に進んでいく新田樹氏の姿勢と、覚悟に、僕は到底できないなあと思うのだった。

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