凡庸雑記「恋」老らくの恋の終着はライカなのか

カメラ欲が消え失せて

最近めっきりカメラ欲というか、メーカー欲がなくなって、SONYがいいとか、Canonが素敵だとか、色が渋いFUJITSUが素敵だとか、あんまり思わなくなった。

残り少ない人生なんだから、もう、諦めてNikonで一生終えようと思っている。

まあ、欲しいカメラは数あれど、あれこれ買えるお金がなし。それが,一番の原因だけど。

老らくの恋に堕ちる

それでも、老いらくの恋に堕ちそうなカメラが世の中にはある。ライカだ。手にするのならM型だ。たたずまいが美しい。

近ごろ、いつも見ているカメラ写真系のYouTubeが、ライカを推している。この間まで、最先端のAF性能とか、鉄壁の露出性能だとか、さんざん語っていた御仁が、ピントも、露出も、シャッターも手動で合わせねばならぬライカを手放しで褒めている。この不便さを、両手をあげて褒めている。

それに、レンジファインダーだから、覗いたところと、写るところが大いにズレる。露出の塩梅も反映されない。そこを当てずっぽうと、豊かな感覚で補正しながら、写真にしていく。すなわち腕が必要。

そこが、写真を趣向する楽しみを豊かにするのだろう。

自分で写真を撮る実感

自分で写真を撮っている実感がする。それが、とてもたまらないと言う。そして、興味深かったのが、写真を撮るだけでなく、その場で体感した臨場感が続いている。とも語っていた。

同じカメラなのに、同じ写真撮影なのに、そんなにもライカというやつは違うのだろうか。興味は尽きない。

結局はピントとってなんてのよ

僕は辺境のNikon党。こんな僕の耳にも漏れ伝わってくるのは、Nikonのピントはお粗末で、CanonやSONYが絶対的に進んでいる。新製品がNikonから出たら、カメラの基本的な部分を押さえた、良いカメラだと言いながら、最後の最後ででも、ピントがやっぱり弱いから、使えないとは言わないけれど、と言われてしまう。

マニュアルで置きピン命だった僕としては、そんなにピントが合う合わないで上げ奉るのか。でも、それが昨今流行りのAI技術の粋で、それだけ会社と手の総合的パワーがあるってことだ。って、言われてぐうの音もでない。

が、そんな日本のトップメーカーを使っている方々が、合わせ辛いライカのピントに四苦八苦しながら、さすがライカというカメラは至宝であるとのたまわているのだから、なんだか皮肉にしか聞こえない。

移り変わりの激しさに疲れて逃げて

ライカにあって、Nikonに無いもの。まあ、考えるまでもなく大河の隔たりがあるのは、カメラに興味を持っている人なら、肌感覚で分かる。

で、ライカにこんなにも気持ちがふらついているのは、(実際は買うことなんてできなくても)日本のメーカーの飽くなき闘争に疲れたからなのかもしれない。きっと、愛すべきNikonは、永遠に画竜点睛に欠くと、言われ続けるだろう。

さりとて、華々しくて、流行りのセレブ写真愛好家が手にするような、カメラは到底眩しくて扱えない。

それなら、その世界から逃避して、変化が止まった。止まったように見える。それでも許されるライカが、老いらくの恋の終着としては、すこぶる素敵なのではないかと、思案している。

↓人気ブログランキングに登録しています。記事がよかったらクリックをお願いいたします。


人気ブログランキングへ