凡庸雑記「小説を書いてみたい」
そう、思っている。小説なんて自分には到底手が届かない存在だと信じている。だけど、書くことを少なからず好ましく考えているのだから、一生に一度は手を出しても良いではないか。そう、時折心に浮かぶ。
それにしても、書くとして一体何を書けば良いのだろうか。
日々の生活の中の、ささやかな愚痴や不平を書くべきか。これなら、品は良くないが四六時中浮かんでは消えているので、ネタには困らなそうだ。
いやいや、そんな劣悪な考えを人様にお見せする小説なんぞにするには、あまりにも知恵がない。ここのところは、日頃どれほど悪態をついていたとしても、仏の如くの顔をした物語を紡ぐのが、表現者だ。
よく言うではないか。愛とか平和とか、人情などの温かな戯言を語れる人に限って、内実は冷酷で冷淡な性格の悪い人間だと。反して悪役ほどいい人、そんな風説がある。
きっと、本当の自分とは真逆な存在の方が、俯瞰して観察することができ、表現の質は高くなろうと言うものだ。
そんなことを考えるに、我と我が身を小説なるもので表現するならば、間違いなく由緒正しい英雄談に違いあるまい。恰幅がよく、容姿端麗、潔白で心優しく力持ち。老若男女全てにもれなく救いの手を差し伸べる。
正しい者こそ生き残り、幸福を手に取ることができる。そんな、甘く心豊かな物語。
ただ、根の悪い本性は隠すことはできず、口が小そばがゆい内容の奥に、チラリチラリと見え隠れする、皮肉な嘲笑と醜悪な厭世。だが、それが物語の奥行きを与えると言うものだ。
こんな感じで、さほど残されていない人生。一編の物語を残しても悪くはないと、最近思案している。
しかしながら、一向に取りかかれないのは、とにかく小説なんぞ面倒で仕方がないと身体が反応するから。よくもまあ、長い時間をかけ、どうなるかもわからぬような言葉の列挙を綴ることができるものか。小説は時間も掛かれば、組み立てるにも骨が折れる。
それこそ、人生を棒に振る覚悟が必要なぐらいの、費用対効果の悪さである。
この時点で、お前なぞには小説たる、人類歴史が世界中で面々と受け継がれている高尚な芸術的創造には、一歩たりとも近づいてはならぬと分かってしまう。
世の中の、小説を欲する創作者の面々は、まるで息をするが如く、三度の食事を嗜む如く、必然として無意識に筆をとり物語を紡いでいるのに違いない。
こんなにも、小説を書く前であれやこれやと、うろうろと踏みとどまっている人間には、縁のない美術的創作品に違いない。