さっき「君たちはどう生きるか」を観た

今回の宮崎作品は観るつもりなかった。宣伝も全くしていないから、内容が分からず不安だった。もともと、それほど宮崎作品は好きでもないし、彼の作品の独特の癖というか趣向に抵抗があった。

正直、高畑勲「かぐや姫の物語」だけだったが、彼の方が素直に感動できた。

でも、何事にも流されやすい性格で、聞こえてくる賛否の声に、ついふらふらと映画館に足を運んでしまった。

まんまと、宮崎監督、いや、鈴木敏夫プロデューサーの謀に引っかかってしまった。

見始めて、宮崎監督の映像美に圧倒された。素直に、”見事””素晴らしい”と唸らされる。動きのタイミング、形、リズム。いっぺんの曇りのない、明確な表現。

老成の果てに行き着いた域であると、感嘆した。

映画、アニメ、絵画、デザイン、ありとあらゆる視覚を必要とする芸術品の見事な集結だった。

登場人物の指先や、腰のくねり、足の運びや力み。見つめるとこれだけで、内容はもういい。この動きを延々観ているだけでも、お金を払った価値はあると、思えた。

主人公の義理の母(その時はどんな人物かわからない)が現れた時、少しの体の捩れや、手先の動き、素足の指が地面に触れる速度。あゝ、なんとも非常識に色っぽく、こんなにもあからさまな、色情を老境の芸術家が良くもまあ描けたものだ。

が、老境だからこそ、私小説の範疇で、愛してくれてきた他者や、彼が届け育もうとしていた、子供たちの目線をかなぐり捨て、自分の、清濁込めた、感受者であり創作者である内面に、無条件に従った。と、思う。

人物の演出だけでなく、特に素晴らしく、嬉しくなったのが、基本的な映画としての演出の才。構図、カメラの動き、編集のタイミングと、まさに、古き良き日本や欧米映画の生写し。

宮崎監督の根底には、ふんだんに詰めこんだ映画芸術の技術が、ぎっしりと蓄積されて、彼の唯一無二の作品を誕生させているのだろう。

すごくわかりやすく、懇切丁寧に、画角、構図、編集を表しているので、映像作家として身を立てようとしている人は、何度も、何度も見た方がいいのではないだろうか。映像演出の教科書みたいだった。いい意味で。

誰かが、宮崎監督の遺書であると言っていたが、それも否定できないと、素直にうなずける。尽きようとしている魂を、次世代に繋ごうと表していると感じた。そういえば、このアニメの主題もそんなんだったか。

癖が少ない。宮崎監督のくどい吐露が、比較的に抑えられていて、個人的にはそれが観やすさの一因だったと感じる。逆に、それを愛していた方には、全体的に薄味の物足りなさを感じたのではないだろうか。

今、観終わった僕も、今ままでは、作品に込められた、一種の良し悪しに混乱しながら、数日も頭の中で反芻する苦しみと、己の貧困な美意識に絶望する、苦く豊かな時間を過ごすのだが、これ以上何か込められた真意あるだろうけれど、そんなことは、捨て置いて、素直に”良い映画”として、受け止めている。

それに、もう一度か二度。許されるなら観てみるかと問われれば、間違いなく”観る””観たい”と語るだろう。こんなことは、宮崎映画どころか、映画全般稀有なことだ。

こんなところだろうか。具体的なことは書けないし、書くつもりはないので、とにかく、楽しい時間は過ごせた。これが僕の感想と感情の覚書。

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