すでに夢は叶っている?写真家としての定めを強いられる一介の仕事人
最近の仕事は写真の重要度が日々高まっている。
仕事の質よりも、写真の質が優先られるのではないか、そう思ってしまう。
ようやく無事に仕事を終えても、最後の写真が足りない、よくないなんてことで、全てがオジャンになることがある。苦労が報われない瞬間に立ち会うことができると言うわけだ。
さて、今日も勢いよく仕事をこなし、無限にと思われる写真を仕事をしながら、どんどん撮り進み、今日は絶好調ではないだろうか。僕は、やり手の仕事人だと自画自賛し、いつものように、仕事の途中で撮りためた写真を確認したら、
不思議なことに気がついた。
今日の日付がないんだ。
そう、いつもなら撮った日付のフォルダーがSDカードの中に作られて、その中に今日この瞬間撮られた写真たちが入り込む。それが、日常なんだ。
が、今日は違う。今日は無い。
フォルダが無い。
何かの間違いなのか、僕が日常の中でおかす、人から侮蔑をウケるための単純ないつもの勘違いなのか、解せない思いで幾度か中身を確認する。が、やはり無い、全く無い。
精魂込めて撮影した写真が。
頭が真っ白。心はぽっかり。
仕事は順調に、抜かりなく進んでいるのに、写真ごときのせいで、僕の人生は潰えるのか。なんてことが頭の中を戦乱の女神の如く駆け巡り、途方の先に蜃気楼のごとくたたずむ死神の手招きに身を委ねて、呆けてしまった。
そんなことを、幾重にも考えていたところで、何も簡潔に解決しない。
とにかく、現状を報告し、対応を相談した。
とりあえず他の人が撮っていた写真があるので、それを組み合わせて、繕って提出することに。また、足りないところは、再度、丁寧にかつ敏速に撮り直し、完璧とは程遠いだ見れる容姿には整形した。
気落ちをしたが、仕方がない、甘んじて現状を受け入れる。
まるで、プロのカメラマンのよう。彼らも、渾身で撮った写真が、消え失せていたらこんな絶望を味わうのだろう。いや、もっとひどいものになるはず。
今回、写真のことで大小の差あれど、プロ写真家の如く苦しめられた。
それを知るに、写真を撮ることで対価をいただき、生活の糧としているプロのカメラマンと、僕は同位では無いかと思う。
いや、すでに写真という結果がなければ、成果を証明できないその事実から、完璧なプロの写真家なのではないか。そう、知ってしまったに至る。
と、言うことは長年夢にまで見て、憧れていた写真家への夢が叶ったと言うことになる。という戯言は決して無いのだが。写真家でもない、知性も無く美性も無い、一肉体労働者に写真という十字架を背負わせるのは、あまりにも不条理である。
これだけ、文明が発達し、技術が成長した世の中、もっと、仕事に集中できる環境は手に入らぬかと考えて途方に暮れて、嘆き悲しむのだった。
それで、SDカードがやっぱり怪しいので、仕事が終わるや否や、その足で近くの家電量販店に赴き、ちょいと高めのSDカードを買い求め、慰みとしたのであった。