「漁港の肉子ちゃん」女性の描く言葉が好きだ

女性の創作

女性の描く言葉(小説)が好きだ。

「漁港の肉子ちゃん」を読み終わって改めてそう思う。

男性の文章が、険しい山脈を一歩一歩踏み締めて登るような、堅牢な城壁を高く積み上げるような、力強さと造形の妙があるのに反し。

女性の描く小説は、たおやかに流れる渓流のような、自然の機微に力まず流れ、だからこそ心地良さと意識を超えた驚きを与えてくれる。

そして、何よも感嘆させられるのが、その流れが折り重なり、広く深い大海へつながる様を、小説の全体から浮かび上がってくる。だから、僕は理由も無しに、女性の言葉の方が心地よいと思うのだ。

もちろん、古今東西の男性作家の文章の方が圧倒的に多く読んでいる。だけど、今なお強く、文章の一つ一つのつながりと流れ。それらに、身を浸した感覚と、溶け出すような感動を覚えた作家は、女性作家のそれである。

男性でそんな感覚になったのは村上春樹ぐらいだろうか。

二人の物語

さて、この物語。

関西から流れてきた親子の物語。本当に目も当てられないほどの流れ具合。母親が男に次々騙されて、そのごとに借金も背負わされ、そのせいで大阪から東京、そして、偶然たどり着いた東北の漁港に何気なく住み着いた。

作家の西加奈子さん。大阪の方だから、大阪弁の使い方、言い回し、テンポがホンマに上手い。関西関係者(四国やけどね)としては、それだけでうれしい。

そして、主人公の母親もこれぞ関西というか、吉本で描く『コテコテ』の関西人をそんまんま。誰彼なく、大声の関西弁で話しかけ、恐ろしいほど場違いな冗談を高らかに謳う。

容姿も巨漢であまり美しくない、と言うか、かなり厳しい容姿。

だけど、意に介さず惚れたイケメンに猛アタック。それも、百発百中ダメンズばかりを引き当てるのだから、土曜日の昼下がりにやっていた吉本のお笑い劇場そのもの。

もう一人の主人公というか、こちらの目線で語られるから、こっちが主人公?の、一人娘。

一見ハーフかと見えるような整った容姿。体つきも手足が長く、スレンダー。全く母とは似ても似つかない。小学生なのにサリンジャーやその他の小説を読み、周りを観察して、一人思いを巡らせる。知的に高く、思慮深い、だから心が袋小路に入りやすい性格である。

この二人が、縁もゆかりもない港町で、人の縁と情につながり、足場を作り生きていく物語。ここまでなら、よくある話のはず。

自然に翻弄された渓流の如く

だけど、山の渓流から大河に流れ大海にたどり着くように、流れの中に岩や、倒木、そして滝や滝壺があるように、物語の想定を、微妙に確かに深くずらしてくる。

例えば、娘を通して、不思議な霊的な場面を小刻みに差し込んでくる。一つ間違えば、物語全体に違和感を与えて、バランスを崩してしまう。しかしこのことで、効果的な刺激を得ることができ、物語の色合いを増やしている。

そして、全く似ていない母娘の秘密が、終盤明かされるが、トーンの違う一人の少女の物語をとうとうと描き、どこに向かい、どこで終着するのだろうかと読み進むと、主人公の母親みたいな人物が、それも完全な脇役(モブ)でひょっこり現れ、あれ?あれ?やっぱり?と進むにつれて繋がってくる。

ここの、物語の挟み込み、トーンの変化、全体に与えるこの物語が抱える、悲しさ重さ。だからこそ輝く母親の破天荒な明るさ優しさがいっそう強く感じられる。

正直、読み終わって、こんなはずじゃなかった。これって、すごい深いやったんやなあ。と、予想範疇を見事に裏切られた悦びに満たされた。

改めて、プロ、それで名を成し、金も成した、才能のある人間には、到底勝てやせいへんなあ。と、思った。

霊性に冷静に予想を超えた物語

それにしても、なんだろうね。女性の作る創作物、小説や歌、写真なんかもそう、好きというか、心地よいというか、しっくりくるというか、男性が知的に理解できる納得できるものが多くそれはそれで、問答無用で素晴らしいのだけど、女性の創作は、シャーマンというか恐山の口寄せというか、この世のものとは思えないところを感じてしまう。

昔、ユーミンが同じようなことを言っていた。女性の歌はシャーマニズムに通じる霊性を持っていると。

女性には、論理や理屈、規範などでは測れない、霊性を宿しているのかもしれない。(今の世の中、こんな感じで女性だからと一方的に断定するのは罪かもしれないけれど。)

話は戻って「漁港の肉子ちゃん」想像を超えた良い小説でした。

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